それは目的ではなく手段 / 打ちのめされ案件 

もし今何か未来の事で悩んでいることがあるのなら、今目の前にあるやるべき事・やりたい事にひとつずつ取り組んでいく、実現していく。

それが解決への一番の近道なのではないかと思うようになってきました。

歩いている時・走っている時によく考えるのですが、足元を見据えつつ、前方は少し見据えながら。そんな感じが塩梅が良いのかもと。

それがロングランなのかどんなコンディションの道なのかで体力温存の方法を考えながら進むのも大事だと思いますが、何にしろ自分の心地よいテンポというものが大事なのだろうなあと思います。

というのも、私の場合ですが、日々の中で何か思い悩む時って先のことばかり考えている時なんですよね。そういう時、私の手はすっかり動くことを忘れて何も創造していない状態になっています。

いかんいかん、手を少しでも動かそう。と整えようとはするのですが。

私は今のところ何かを作って生計を立てていこうという考えはない。。です。

でも常に何かを作っていたいと思っています。

誰かに見せるのも良いけど、誰にも見せなくても良い。
ただただ質より量を重ねて質を高めていきたい。

そう考えるようになりました。

質を求める事もとても良い事なのですが、私の場合はそれをやるとかなり病みモードに突入するケースが多発しているので気軽に量産して日常レベルで質を少しずつ高めていく方が合っているのかもしれないという結論に達しました(現時点調べ)

そしてそれが日常になり他者との化学反応があったらもっと楽しいなあと想像しています。

昔はあまりこういう考えを持てませんでした。

そう考えられなかった事は私にとってはとても苦しいことだったように思います(窮屈だったし、どこか生き急いでいたように思う)

最近、上司に「余生を生きているような気持ちです」といったら一笑に付されました(当たり前。私より2倍生きています😆)

また、最近読んだ本で「健康は手段であり目的ではない」という打ちのめされるような言葉を眼にし。。何か私の中で価値観がひっくり返ったような気がしています。

もっと色んな事を体感・体験できる。そう考えるとほんのちょっとしたや些細な事でもありがたい。そんな事を感じています。

ヒントは子供時代 / see you in the futureとは子供の私が投げかけた言葉だったのか! 

よく相手の理想像に合わせない、という言葉を聞いたりしますが、それもありなんじゃないかなあと思います。

それを続けていて苦しくなってきたらやめれば良いだけの話だし。

しかもその役を演じた事によって自分が求めている像というものが更にくっきりしてくるかもしれない。

私は最近色んな人たちと言葉を交わす中で気づいたことがありました。

今の生活で関わらせて頂いている方々、また、これから出会うであろう方々との関わりの中で私はどういう自分でいたら心地よいのか?満足できるのか?という事をふと思ったのです。

きっとそこにはブレる自分もいるだろう、自信をなくしてしまう自分もいるだろう。

でもそのブレたり自信をなくしてしまった時に立ち戻ってきたいあるべき自分の姿とは?

の答えが昨晩突然やってきたのでびっくらこいちゃって🙀

あーそういうこと!と納得&もう子供の頃からやってたわ〜という事に気づきました。

子供の頃からやっていた。。という事にひとりで勝手にしみじみしちゃって。社会人生活の中で社会人とはこうあるべき姿、というものに自分という照準を合わせようと一生懸命だったんだろうなあ。。

とか何とかもう終わった話なので良いんですけど!

やはり色んな事のヒントは子供時代にあるな、と思いました。

未来で待ってて 

昨日、小さな嘘をつきました。

 

こんな出だしで書くのは初めてなのでドキドキするのですが、書いてみようと夜にタブレットを引っ張り出してきました。

 

嘘、というか知らないふりをしてしまったのですよね。事の詳細までは詳しくは書きませんが、本当の事を言い出すタイミングを逃してしまって、何だかだんだん言いづらくなってきてしまって結局言えなくなってしまったというパターンです。

 

知っているのに知っていないと言ってしまったことにちょっとした罪悪感を感じてしまいました。

 

タイミングって大事だよなあ。。と思ったのでこれから気をつけたいなと思いました。

 

自分の臆病さや自分を守りたいという気持ちが働いてしまった事への罪悪感におしつぶされそうになりかけたのですが、責めても何も始まらないな。と思ったのと、この苦々しい経験というか汚点の様な経験を得れたことにちょっとした感謝を覚えました。

 

かなり自分都合の解釈で気分が悪くなってしまった方がいたらごめんなさい。

 

なぜ感謝したかというと、これで他の人が似たような、もしくは同じような事をしても許すことができると思ったのです。

 

それに真実をいつでも口に出すことが正解なのだ、というある意味潔癖な固定観念が自分の中にあることにも大いに気付かされました。

 

そうか、自分はそういう考えに縛られているところがあるのだな、と。そしてそんな自分を許せないままここまできてしまったのだなと思ったのです。

 

つまり自分のその正しさを求めて生きていると自分の事も追い詰めてしまうし、他者の事も追い詰めてしまう。正しさというとても曖昧な剣を振りかざしているようなものです。

 

そしてこの自分が汚れていく感じが何とも嬉しい。。というと何だか変な感じがしますが、なんか、良いじゃないですか。どん底まで落ちないと上には這い上がれないといった感覚に近いのかな、この世界の闇夜を知って初めて光の存在に気づくというような、書いていてよくわからなくなってくるのですが、何だかそんな感じ。。😂

 

こういうことは初めてじゃなくて前にもあったと思うけど、その度に罪悪感に押し潰されていたor忘れていた。

 

けどこうして言語化してある種の自分を許すという行為は初めてだったかもしれません。

 

あの時の嘘は🤥自分にとっては自分を守るための最善だった。何より、その行為を犯してしまった自分の事をしっかりと認めてあげよう、そんな事を考えていました。

 

この事も経験と共にまた考えが変わってくるのかもしれませんが、今の私はこんな考えを持っていてアップデートできる機会があるのかと思うと、どんな自分に会えるか楽しみです。

 

未来で待ってて!

 

最近この動画にハマっています

 

 

未来で待ってて、むちゃ良い言葉

しおりがない旅に出る理由 

遠くに住んでいる友人の展示を観に行ってきました。よく、あの場所でサバイブしながら作品を作っているなあ。。と、尊敬の念を覚えました。

そして作品の繊細さと同時にその作品達は日常という舞台の地続きなんだ、と染み入る様な感覚を覚え。。

生活というものは一見地味だけど大きな力を持っているのだと改めて思わせてくれた展示でした。

どうもありがとう😊

さて、そんなことを考えながら出発迄コーヒーを飲んでいたのですが、私は何故に遠出をしては活力を得ているのだろう?と思いました。

僕らが旅に出る理由、みたいな話になってきますが

それはズバリ日常の偉大さを実感するためなのかもしれない、と思いました。

勿論、自分の知らない新しい土地・人・物に出会えて心地よい刺激を感じられるという点もあります。

けれど、日常の対極にいても考えてしまうのは自分の生活。でも、より客観性を持って考え得る事が出来るように思います。

そして自分は何者なのか、何を望んでいるのか、そんなこともいつもよりハッキリしてくるような気がします。

というか、そんな事考えていたら人生があっという間に終わってしまいそうですが🤣そのプロセスもまたやりたい事なんでしょうね。

そう、私はひとりでブツブツと哲学してるのが好きな人間なんです。。旅に出ても観光名所も巡らないし、とことん歩いて土地感覚を身につけたいと思って歩き回った末に疲れ果てているという。でもコーヒーだとか、本屋だとか、アートの匂いがする面白エリアにはとことん敏感です。

旅ベタとも言えるかもしれないけれど、これもあり。失敗に直面しては次の手段を考えていく、旅のしおりをいっさい書けないタイプだと思う(笑)

だからきっと損をしている事も多いと思うけれどそんなあれこれを面白がっている自分もいる。

そして旅をするたびにいつも思うこと。

観光だけだとその土地の表面、あるいは断片的にしか理解を得れない。

当たり前といえば当たり前なのですが、住んでみないとその土地の地力だったり人々の概念というものは見えてこないんですよね。

最初の直感を私は信じますが、やはりそれだけでは見えないものもあるので、ひたすら歩き回るというスタイルを取ってしまうのかもしれません。


夜は短し歩けよ乙女

読んだ事がないのですが↑このお話の舞台をウロウロしていたみたいなので読んでみようかななんて思いました。

主体的に生きる

昨日無事にお誕生日を迎える事が出来ました。


こんなに嬉しいお誕生日は生まれて初めてだったかもしれない。。何故なら平穏無事にこの日を迎えられたから。

今まではそうじゃなかったの?と聞かれればいや、そうでした、平穏無事でした。

でも去年は本当に身体の不調でずっとハラハラ、くよくよすることも多くて、思わずお誕生日前夜に良く乗り切ったなあ。。としみじみしていました😅

でもね、これからもきっと色んな出来事がお待ちしているかとは思いますので、その時に毅然とした態度でいられる自分であるよう、心と身体を逞しくして行きたいなと思います。



そんなお誕生日前後、私の頭の中をぐるぐるしている言葉。以下に記します。



主体的に自分の人生を生きたい



ここ数日何かずっとこれからどうすれば良いのかわからない事へ対するもやもや〜〜があって、解決という策を見つけ出したわけではないのですが。。要は私は主体的に生きるという事がしたいのだな、という一つの答えを得ました。

主体的に生きてきているようで全然そんな人生ではなかった。

いつも人の顔色を伺って、誰かが作ったシステムに乗っ取って突き進んでいたように思います。それがその時は楽しくても、いつも最後の方には疲弊している自分がいるのをしっかりと認識はしていたのです。

でもどうすれば良いのかわからなかった。

だからコロナ後はフリーになってちょっと怖い一歩を踏み出してみたけれど、うまい方法もわからず、病気にもなり、今に至るという流れになっていました。



この流れが良いかどうかは置いておいて、そして自分が思うような主体性がそこに生じているかと言われれば、うーーん。。全然。。😂


でも試してみてこういう感じなんだ。という感触とそれに伴ってこれから生きていくためのいくつかの枝道を開拓できたように思います。

あれがダメならこちらの方法もある。といった感じでしょうか。



こうして考えると主体的ってとても大きくて大変で自分には出来ない!と尻込みそうになってしまうのが現状なのですが、小さなところから始めればそれがいつかは自分の確固たる主体性に変化してくのではないかな、と今日ふと思いました。



それはまさに仕事中。。(余計な事を仕事中に考えるタイプ)。今日は色んな事を詰め込み方式で覚えなけれないけない日だったので少しため息が出そうだったのですが、その事自体にコミットしていく体制をつける。そして詰め込んだ言葉を自分の言葉に置き換えてより自分ごととして捉えていく。。

自分というオリジナリティを色付けしていく

そんな事の繰り返しで色んな事が展開していくのではないかと考えています。



これを書いている今、今日詰め込みしたことをノートにまとめていたのですが、何だか自分の言葉を綴りたくなって、そうしないと自分の存在の糸がプツンと切れて風船の様に🎈何処かにふわふわと漂って行きそうな感じがしたから。

最近、暇があると仕事の事を考えてしまったり、何かをしなければ!という強迫観念に駆られていたので余白を持ちつつ進んでいきたいとも思う。これも主体的に生きるの一歩かな?と思います。



メッセージをくださった皆さんへ、本当にどうもありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします😊

変わる前はもやもやするのだ

いつもやっている事にやる気が持てなかったり違和感や億劫さを感じたり。

これをネガティブと捉えれるけど、自分の変わり目なのだと捉えたい。

変わろうとしている自分がいてでもどうすれば良いか(未知だから)わからなくてだからモヤモヤする。

けど、それで良い。

なりたいイメージを重ねていくだけ。

部屋の輪郭、あるいは快適さについて 

大きな出来事があった日には言葉がなかなか出てこない

“平和“という舞台裏には道が見えなくなるほどに草木が茂ってザワザワと音を立てている

だからこそ小さなことで自分を満たしていく必要があると思う

部屋の一部を機能的にしたり、好きなものを置いたり、好きな友達と一緒にご飯を食べる時間を設けたり、冷蔵庫にあるものだけで地味だけど一生懸命ご飯を作ったり、明日早起きする為に今できる事を考えたり、タスクに少しだけでも良いから着手したり

自分の世界の輪郭を幾分くっきりさせておくことは、外側で何が起こっても安心して帰れる自分の家を作っておくことでもあるのかも

そんな事を思った

昨日、今年イッチ嬉しい言葉を同じ職場の方から頂いた

なんと、姿勢が良いですね、とな!!!!!

お世辞だとしても本当に嬉しかった。そう、それが暑さの白昼夢の中、幻の私の姿を見ていたとしても。。

そんなこと考えた事なかったし常に改善したいと思い改善策は取っているものの、日々の動きは乱れを生み、また調整し、また乱れ。。の繰り返しなので時系列がごちゃごちゃになってしまいそんな実感を伴う事がないのだ

というか白昼夢だったとしてもその一瞬の自分の姿をキープできるようにコツコツコツるわーーーーーー!!!😂むおおおおおおお、嬉しいい

変化することは生きること🎐

昨日、術後初めての検査がありました。結果は異変なし。。ホッとしたと同時にこれからも心身ともにますます健康になりたいという思いを抱きました。

それもこれも色んな方々のサポートがあってこそでした。本当にありがとうございます。

この日を迎える何日かは緊張を伴うムードが自分に立ち込めていたのですが、徐々に徐々に落ち着きを取り戻し病院へ行くことが出来たように思います。

あまり好きではない検査だったので(超音波)、いかにこの時間を楽しく過ごしてやろうかと、検査してくれる方と時世の事を話したり(おしゃべりな患者)、待合室では友人の子供の写真の歴史をひたすらスクロールして見たりしてました(ストーカーまがい😂)

この日を迎えるにあたってザッと半年を振り返ってみたのですが。。

どんな結果になろうと後悔はない。と思えたことはとてもとても大きな収穫だったように思います。

私はいわゆる術後の薬・放射線治療をお断りした人です。その背景には自分の根本(なにが私の病気のトリガーとなっていたか?)をみなおしたいという意図からでした。

世間の一般常識論では薬諸々の治療が当たり前とされている風潮があると思うのですが、私はそれを受け入れられなかった。

それに不安がないかといったら嘘になります。本当に良かったのだろうかと、逃げなのではないのだろうかと何回も何回も思いました。

でも、そこに正解・不正解はない

それが最終結論でした。

そしてこの半年間、食事や生活のリズムを見直して、実戦して、再調整して、その繰り返しでした。

当然ながら全部が全部上手くいくわけではないし、うまくできない自分に落ち込むこともよくありました。

けど、半年という練習と実験の日々が少しずつ自分の中に土台を作り始めていることも事実で。。それが大きな心の支えとなってくれているのだと思います。

また、自分の心が乱れるときは自分の周りで何が起こっているのか、自分の生活はどういうリズムを取っているのか。落ち込んだときはどうすればよいのか。そんなことを日々顕微鏡を覗くように過ごしていました。

実際、いかなる時でも自分は幸せだ。と思えるようになりました。勿論、嫌な出来事、気持ちの渦中にいるときはそんなふうに思えないのが現実ですが、一日の終わりに「嫌だったけど、それでも幸せ」と思って締めくくる。

そう、ムカつく事はあろうとも、自分は今日も目覚めてご飯を食べれて屋根がある家に住めて多くはないけれど収入を得て生活している。何より人と関わって生活できている。だからムカつく事もあるけれど、嬉しい事もいっぱいある。

私の場合は、薬に頼ることにしていたら思考停止のまま、自分の頭で根本の原因を考える事が出来ていなかったかもしれない。私は根性なしなので。。働く事も、新しい人達と出会えるパワーも持てなかったのかもしれない。

。。と思いました。これはあくまで私の話です。

何より新しい仕事を始めて、また私の中の価値観が変化してきている。

変化することは生きること

いつも変化を望んで長続きしない自分を悔やむ事が多い今迄でしたが、この言葉を聞いて救われた気持ちになりました。

私はこれからもっともっと明るい方向に向かって変化していきたい。頭や常識を軸に考えるのではなく、身体と自分の求める事を軸に日々を重ねていきたい。

もう既に始まっているシーズン2をその様に進んでいきたいと思います。

長文失礼しました。異常な暑さの6月の終わりですがどうぞご自愛くださいませ🎐🎐🎐

夏、梅雨、涼音、下半期、スマホプラン、スタバ 

暑い😵35°Cって本当ですか。。?日本はこのまま亜熱帯の国になってしまうんじゃないだろうか。。

この前職場の方と、寒いと着込んだり対処しようがあるけど、暑いと脱ぐのにも限界が。。(笑)という話をしていた。

私は本当に暑い国というところに行ったことがないから太陽光線が日本とどれくらい違うとかはわからないけど、日本、東京は湿気も多いしコンクリートやビル窓の照り返しもあり、何だか逃げ場がない。

すぐにサッと逃げされるような木陰もいっぱいあるわけではないし、何より人が多いし👬

先が思いやられますが、身体も少しずつ慣れていくことを願って。不満ばかり漏らしてしまいスミマセン、とは言いつつ事実でもある🥰❣️

そんな中ご近所の誰かが風鈴を窓辺に設置しているようでチリンチリン涼音のお裾分けを頂いています。あの音を聴くとほんと涼しさが吹き込んでくるようで不思議だなあと思います。

それにしても日本人とは四季を楽しめる特権もありますが、それに適応するために身体を常にアップデートしなければならないプログラムが組まれているのではないかと思う今日この頃。

今日はスマホプランの見直しに行ってこようかと思っています。ズボラな私にしてはこの見直しはなぜか定期的に行こうと思えるのですよね。生活環境が変わったりすると自ずと自分に見合ったプランも変わってくると思っているのかもしれません。

2022ももう下半期が目前。驚くスピードで上半期が過ぎて行きましたが、自分が何をしてきたのかもう一度じっくり振り返ってみて何を残して何を更新していくのか。6月も残すところ後数日。色々と考え小さな行動に移していけたらと思います。

6月も後数日。

スタバでマイタンブラーを持っていくと55円割引です❣️6月だけ。いつもは20か30円位だったと思います。

ただ見守るという事について 

常々、人は人の評価を求め、それを基準に自分というものを評価してしまう。そんななんとも人間らしくとも、時に自分の可能性を限定してしまったり、才能を見限ってしまったり、激しい思い込みの中に放り込まれてなかなかその地獄(もしくは天国?)の釜から抜け出せないということもあるのではないかと思う

 

私は昨日、とある大きな挑戦(私の中では清水ダイブに近いくらい勇気がいったこと!他の人に言わせたら「そんなこと〜?」と言われてしまうかもしれません😅)をしました

 

その大きな挑戦の最中、私の上司は遠く離れた所で作業をしていて。おそらく遠くから見守っていたのでしょうけど、一言も声を掛けてきませんでした

 

そしてその挑戦が終わった後も(無事に終了しました)、評価を下すことなく「どうでしたか?」と一言聞いてきただけでした

 

そんな一連の流れを昨晩振り返っていたのですが、その出来事がとてもありがたいなあと感じていました

 

評価がないというと成長がない、という方程式が頭の片隅をよぎるのは私が今までの社会人生活でその様な価値観を抱いて生きてきたからかもしれません。もしくは評価があってこそ成長があり、今より更にもっともっと良くなっていく、豊かになっていく、効率的になっていく、、そんな考えが刷り込まれてしまっているのかもしれません

 

 

けれど評価がないって

 

 

今のこの私の現状・頑張りをそのまま受け止めていてくれている。私がベストを尽くしたという事を理解してくれている。何よりフラットな目線で見てくれているのだな、という風に昨日の私は感じたのですよね

 

褒められるのは嬉しいけれど、少し度を過ぎると上から目線になる可能性もある(クソバイスになることも、、)

 

怒られるとそれなりに悲しくなっちゃうし😂

 

人にあれこれ言うのって、自分を大きく見せようとする行為とひねくれ者の私は思ってしまう(自戒を込めて、、)

 

何より一番怖いのは自分が他者の評価を常に求めてしまう=他人を通してしか自分自身を認識できないということです

 

過度に心配するでもない、かといって完全なる無関心でもない

 

そっと見守る、という大きな愛を受け取った気分でした

 

あのフラットな目線は本当にすごい。人をコントロールしようという要素を感じなかったから

 

愛の形は色々ですけどね

 

 

人によっては超怒られたいという方もいらっしゃるでしょう😅もしくは超超アドバイスが欲しい!という方も

 

これはあくまで私が感じた優しさのひとつであり、自分もただただ目の前の人を認識する、そしてコントロールを手放す、

 

何より自分の事は自分が一番にわかってあげたいなあと思うのです

 

でも、私憑依体質なのでうっかり仕事にのめり込むと我を忘れて消耗してしまうタイプらしいので適度にガス抜きしながらじゃないと生きていけないという事を自覚しました。人生とは面白く常に発見に満ち溢れているなあと思わざるを得ない日々です。もうね、疲れちゃうから。これ書いている今、ドトールさんに逃げ込んで書いています。だからひとり旅とか好きなんですよね。。

 

 

とひとりごちてしまいましたが

 

ジメジメがすごいですね!低気圧と共存していけるようにしたいと思います