
何年か前、街の至る所に点在している植木鉢の写真を撮りためていた事がありました。
久しぶりに訪れた東京の街中で次々と眼に飛び込んでくる名もない植木鉢達になんだかよくわからないけど物凄く魅力を感じたのです。忘れもしない、あれは清澄白河のとある道でした。
都会では庭を持つことが難しい為、植木鉢で家先を潤していたという話はよく聞きます。私は地方出身者ですが、確かに東京よりはこんなに頻繁に植木鉢を見ることはなかったかも。。?しれません。
頭おかしくなったか?と思わないで欲しいのですが(いや、重々承知?(笑))、私にはその植木鉢達が道端で小さな声をあげているように見えていたんだと思います。鉢植えという限られた環境の中で根を張りながら、時にはその植木鉢をも破壊して外にはみ出してしまってたり、ひょろひょろと上にだけ伸びてしまったり、それ以上伸びるのを辞めてしまったり、そんな姿を見るとなんだかその生が生々しく訴えてきているような。。植木鉢を擬人化して人間ごとのように考えていた私の妄想にはすぎないのですが―
何年かの時を経て、私は今鉢植えでいくつか植物を育てています。最初はほぼ放っておいていたような育て方をしていたのですが、ひょろひょろになってしまい軌道修正してみたり、土を替えたりお花屋さんに相談してみたり。挿し木から根がしっかりしてきて少しずつ芽を出してくるといちいち感動。はっ、と気付いたのですがこれは結構人間の意識が移っているな、と。道端の植木鉢達の全部が手入れをされている訳ではないけれど、人の眼、手を通して舞台に登場している姿は何か物言いたげなような、主張を持っているような、そんな姿が気になって仕様が無かったのだと思います。
話は少し逸れるのですが、この世界には色んな人がいてそこには沢山の価値観や考え、主張がある。だけどその主張をパワーでねじ伏せようとする人、頑なに守りに入り攻撃をする人もいる。それでも小さな声はあげていかないと向こうには伝わらない。この事は日常生活の中でもよくある事で自分の身体の声に耳を傾ける、些細な変化に耳を澄ます、色々ありますよね。
声をあげては受け止めてもらい、受け止めてまた声を返していく、そこから発展していく。そんなコミュニケーションの在り方が今日もどこかで生まれている事をイメージしよう、なんて考えた日でした。