アート / 空家 二人 / 語られうる物語

先日蒲田に新しくオープンしたギャラリー「アート / 空家 二人」に行ってきました。美術手帖にも掲載されていましたが面白いシステムで作品を販売しており、興味深く観賞させて頂きました。

今回、作家さんは総勢15名とかなりの人数で、作品は絵画・彫刻・映像、また、観賞者とダイレクトにコミュニケーションを取れる体験型の作品まで多岐に渡っていましたが、一軒家をまるまる使用しており、スペースに余裕を持ちながら観賞する事ができます。

さてさて、今日は出品作家の一人でもある坂本夏海さんの作品の事を書かせて頂きたいと思います。今現在スコットランドに在住の坂本さんは”魔女狩り”に紐づく歴史や女性史を題材とした作品を制作しています。インタビューや対話を通して人々が持っている体験や記憶を自分自身に沁み込ませ、過去・現在・未来と細く見えない糸で紡がれているタイムラインに漂っている物語の持つ瑞々しい映像をビデオやドローイングに投影しています。

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7月17日からオープンした「二人」という蒲田のスペースで展示に参加しています。 https://nito20.com/index.html 友人でアーティストの三木仙太郎さんが始めたギャラリーです。 毎回15名のアーティストが参加して、作品を1万円から販売し、作品が購入されると値段が上がっていくというユニークなルールで展覧会が進みます。2回以上購入されなかったらアーティストが交代するという、ゲーム感覚のような楽しさと緊張感があります・・。 今回は私は昨年スコットランドで制作をしていたシリーズの一部を出しています。 スコットランドの魔女狩りに関連する場所を旅しながらインタビューをした際の日記のようなドローイングです。また、ビュート島という場所で出会った魔女狩りについての奇妙な話からインスピレーションを受けて行ったパフォーマンスの映像も一緒に出しています。 作品の作り手でありながら、美術への向き合い方の新たな方法を試みている三木さんの活動はとても興味深くて、やりとりをしながらエネルギーをもらいました。私自身これまで作品を売ること・買うことに躊躇してあまり積極的になれないところもあったのですが、そのことにも向き合ういい機会でした。参加しているほかのアーティストの方達の作品もとても面白そうです。お部屋に飾る作品を探している方、ぜひみてみてください。 入場の際には人数制限を設けていますので混み合わずご鑑賞できるかと思いますが、どうぞ無理はされずにお願いいたします。ウェブサイトからも展示が見られます。 (この作品たちはイギリスのロックダウン中に郵送され、数ヶ月も音沙汰なく、もう無くなったかも・・と諦めかけた時に無事に到着したというドラマがありました!ロックダウンも7月現在スコットランドはかなり緩和され、少しずつ日常に戻りつつあります。) NITO01 2020年7月17日 – 8月10日 金、土、日、月、祝日のみ営業 11時 – 19時 【参加作家】 Aokid/伊阪 柊/内田 涼/UMMMI./うらあやか/久留島 咲/坂本 夏海/だつお/田中 良佑/鄭梨愛 /林 奈緒子/本間 メイ/前田 耕平/村上 慧/森山 泰地 【会場】 「アート/ 空家 二人」 東京都大田区蒲田3丁目10−17 京浜急行 梅屋敷駅 徒歩6分 京急蒲田駅 徒歩8分  JR・東急 蒲田駅 東口 徒歩13 分 ※道幅が狭いため、車でお越しの際は近くに駐車お願いいたします。 【連絡先】 letter@nito20.com 代表 三木 仙太郎 撮影 石原 新一郎 三木 仙太郎

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今回の映像は坂本さんが海に石を投げ入れている映像が映し出されています。(こちらのインタビュー記事にそのひとコマが記載されています)どうして石を投げ入れているのだろう。。?と思ったら遥か昔、魔女狩りが行われていた時代にスコットランドのビュート島という所で海に石を投げ入れた事により「嵐を呼んだ」「船を沈没させた」として魔女として告発されてしまった女性達がいるという歴史がインスピレーションとなったようです。映像の隣のドローイング達は作家自身がその土地で出会った人達との対話や感じた事が綴られています。

こんな歴史があったのかい。。!という事を知れるのは勿論だけど、今この時代を生きる私達はどれもそれらを体験する事は不可能だし歴史はいつも曖昧に物を語ります。しかし、今私達が眼にしているもの・感じるもの、そこには過去からのメッセージが散りばめられていて現在にまで継承されているものもあり、そのメッセージを通して今の私達の生活をまた違った角度から見つめ直す事ができると思うのです。

人は自分の生活が脅かされるのではないかと不安と恐怖を抱くと攻撃する。嵐が起き、船が沈没した理由、それは眼に見えないものだから眼に見える何か、にフォーカスが当たってしまった歴史とも言えるのかな、とも思いました。それは現行で起きている情勢とも似ている所があって、眼に見えないウイルスを攻撃するより、人を攻撃するニュース等が飛び交う度に憂鬱になる事が多いです。自然のものであるウイルスを攻撃。。って言い回しもおかしいんですけどね。

でもこうして石を海に投げ入れても捕まらない現代(少なくとも捕まった事がないワシは浜っこです。干あがったわかめを食べて注意されたことはあったけど。。)になっているということは大きな時代の流れの中に少なくとも人々の意識の変容があったという事です。

私はその点でこの作品から見える過去と現在を結んでいる分厚いページの中で何がきっかけで意識がシフトしていったのか?という事にも興味を持ちました。でもおそらくそれは指をパチン、とさせれば切り替わる歴史ではなくて教科書には載っていない語られることのない誰かの小さな行動が物語を生み出しその波紋を呼んだのかもしれません。

「自分のこの言葉や行動が何になるんだろう」と思う事があります。でも、誰か一人が意識を変える事によって伝染していくグッドバイブレーションというのは存在しうるのだと信じていきたいです。そういった意味ではこのギャラリーの新しい試みも応援したいと思いますし、皆が色んな角度から思考を動かしてアートを楽しめる場が出来て言ったら良いなと思います。そしてここでは書けませんでしたが、面白い作品を出品されている素敵な作家さん達が沢山いらっしゃいました!

この作品はどうやって販売するんだろう。。と考えるものもあります。今は少し現地に脚を伸ばすのが難しい時期でもありますが、体験できる方は現場で体験してみてください。また、WEBでも写真で作品が閲覧出来るみたいです。

NITO01
2020年7月17日から8月10日(11~19時)
アート/空家二人
東京都大田区蒲田3-10-17
火・水・木曜休館
観覧無料
HP: https://nito20.com/ 

アートと味噌汁の関係

私は密かに味噌汁とアートの存在はイコールと言えるんじゃないかと勝手に仮説を立てている。

味噌汁は日本人のソウルフードであり大昔から飲まれていて、一日の食卓に無ければならないものの様な存在感を放っている。

味噌汁はあの小さなお椀の中に豊富な栄養素を詰め込んで夏バテも防止しうる、おまけに土井義晴先生も一汁一菜やお味噌汁について話しているときた。(すみません、土井先生リスペクトなもので。。(照))

たまに味噌汁を丸一日飲まない日があるけどそんな日は何故かいつも調子が上がらないし、余計なお菓子をもりもり食べてしまう事がある。でも、味噌汁を一日に2~3杯飲むようになると何故か満足感が得られてお菓子の量が減った経験がある。

そう、全体的に調子を整えてくれて腹の底からその日のパワーを底上げしてくれる感覚があるのです。

で、何でアートとイコールなのかというと、アートも日常に無くてはならない存在だと思っているからです。味噌汁を飲まないと腹に力が入らない、アートに触れないと腹に力が入らない。力が入らないというか、なんだか日々がパッとしない。。(個人的所感)

味噌汁を作る工程も作品作りの工程に似ていると思う。昆布や鰹節、いりこを使って大きな鍋に出汁を取る。この出汁の存在は作家の持っているアイデアや制作の動機などにあたる。そしてその豊穣のアイデアの海の中に無数の野菜や時には魚や肉をぶっこむ。素材の切り刻みかたはどんな作品(味噌汁)のイメージを描いているかによって変化する。短冊切りなのか、半月切りなのか、それともいちょう切りか?

そしてくつくつと煮て(もくもくと作業し)、灰汁を取り除いたりし(余計な所をカットし)、ころあいをみてお味噌をとく。

それだと、煮ものだとか他の料理でも言えるんじゃないの?という声もあがってくるかと思うのですが、決め手はお味噌です。ゆっくりと時間をかけて発酵させた味噌がお鍋の中に注ぎこまれていくように、作品の中にその作家の熟成発酵された””が注ぎこまれていくのです!

このお味噌がないと輪郭がぼやけたただのスープ(作品)になってしまうが故に、あまり心に残らないものとなってしまう。

”愛”という言葉を使うのにいささか抵抗があって思わず声が小さくなってしまうのだけど。。(もごもご)ここは声を大にして言おう。出汁取る以上に熟成された並々ならぬが投入されるのです!ぱふぱふ

そしてここで述べているアートとは勿論、絵や彫刻や人の手を介して作られる作品の事も述べていますが、掃除や料理、洗濯のたたみかたやコピーの取り方に至る日常の行為までもアート作品を作る行為とみなして話しています。やはりどんな行為にもお味噌の様なあげまん的な、松岡修造的な愛というスパイスが入っているとなんだか心がほわーんとなるのです。

だから、毎日必要。

一日に一回はそういった物に触れると元気が出ますよね。

という仮説を妄想している今日この頃でした。今日はお味噌汁食べましたよ♪

プロセスの時に見える風景 / 奈良さん / メゾチント

昨日は銅版画クラスでメゾチントという技法の目立てを行いました。初メゾチント。。!他の方々がやっているのを横目でいつも見ていて、やってみたいなあと思っていたのです。ちなみにメゾチントとは、銅板全体に傷をつけて写真の様に真っ黒の画面を作り(この工程が目立て&写真はインクを載せて刷った後のもの)、その上に描きたい絵を描いていきます。絵を描く際に目立ての時にできた傷がつぶされるのでその部分は白くなります。

まずは目立ての作業なのですが慣れない道具を使って長時間行っていた為、腕が超筋肉痛。。(泣)でも家帰って刷ったものを並べてみて変化があることにムフフ、となっていました。

私は作品の出来上がっていくプロセスを通っている時が一番好きかもしれません。また、他の作家さんの作品の裏側にあるプロセスを知るのが好きです。こんなに時間が掛かっていたのか、こんな出来事が起きたからこの様な表現方法に至ったのか、という事が知れると自分の感性が刺激を受けて更に違う視点を持つ事ができる。とかいう事を考えていたら奈良美智さんが以下の様な事をツイートしてました。

奈良さんの著書でちいさな星通信という、自身の生い立ちからドイツへの留学、様々な国での活動が綴ってある本があり、今でもたまに見返しています。日々や制作への葛藤がストレートに綴られていて、悔しい事があった時や行き詰った時、この本を枕元に置いて寝ていた若き日々があります。。(遠い目)奈良さんの作品から出ているあの深みとは、色んなプロセスを通った上で出てくる深みなんだろうなあと今更ながら納得しています。

何より、素材とコミュニケーションしながら少しずつ理解していく、ということを肌身で感じた時に嬉しさを感じるかもしれません。自分の事や日常を忘れ素材の事だけを考えている時に、なんだかすごく幸せを感じます。でも私は理解するのがすごく遅い方だと思います、残念ながら(笑)

そのプロセス自体が作品になることだってあるんですよね。すっとばさず、じっくりと身体に馴染ませていこうと思います。自戒を込めて。

お味噌を仕込む楽しみと発酵社会

今年の3月に友人宅でお味噌のワークショップに参加しました。早いものであれから5ヶ月近く経とうとしています。あの時から状況は刻々と変化してきていますが、その間に私は何を学んで何を捨てたのだろう?そんな事を自問自答する毎日でもあります。

今回、お味噌のワークショップを主催している寺島あかねさんから「お味噌どうですか〜?」とのメールが入り中身をチェックしてみる事に。

カビなどは特に生えることなくすくすく育っている様でした。このお味噌の上にラップを敷いていたのですが、うっすらたまり醤油。。ってこういう工程で出来るという事を知れてなんだか嬉しい。

その後は別のタッパーに味噌を丸め投げ入れて、またしばしの間封印。。

自分で甘酒や塩麹、ぬか漬けを仕込んだ事はあったけれどもお味噌ははじめての事なのでまた開封するのが楽しみです。

寺島さんも仰っていたのですが、世の中がどの様に様変わりしていこうと、発酵はずーっと絶えず行われている。何だかその姿を見ているととてつもなく尊い姿で、私達の生活している社会もこの様な社会に近づいていければ良いのではないかと思います。

決して速くはないけれどじわじわと熟成していく社会。戦後からスピード重視で進んできた私達はそのスピード感に違和感を覚えない程麻痺しているところがあるのかもしれない。そしてその速さの中で見落としてしまっているものがあるのではないかと、思うのです。

でも見落してるものに気が付く事が出来れば拾いにいけますもんね。社会が、というよりはまずは私から。

主催者の寺島さんは色んな国を回っていらして発酵についてグングン学び、伝える姿にただただ、すごいなあと思いました。何よりお味噌(発酵)を愛してやまない姿が良いな、と思います。

今回のウイルスや生活の事、また、知らないうちにsns等の波に飲み込まれてしまって不安に包まれている方々も多いと思います。私もその一人です。でも、「不安を抱く」という事にさよならをしようと思います。こうしてお味噌が頑張ってくれてるんだから、出来ることから、1歩でも良いから少しずつ。と、少々鼻息荒めです。ふふふ

寺島さんのHP素敵なので、リンクを貼っておきます。you tubeでも丁寧に解説してくれてますよ!↓

https://ja.travelling-fermenter.com/#

paper prints

先日小学生の時にやった紙版画を思い出してやってみたら思いのほかに楽しかったので今日も少し手を動かしてみました。ローラーもインクも無いのでひとまずスタンプパッドでインクをしみ込ませて、手を馬簾代わりに。

まんべんなくインクが行き届いていないのと、圧なんだろうか。くっきりとまでは行かないけど、なんとか形は浮き出ている。。

自宅に紙刷りで使用した版画紙があるのでそれを再利用しています。

ヒヤシンス頭 100×148 acrylic
cow 100×148 acrylic

今日の二枚

8/1からART BOOK TERMINAL TOHOKU始まります

早いもので八月も間近ですね。というわけでART BOOK TERMINAL TOHOKUが始まっちゃいます。難しい状況が続いている今、入場制限等も設けている様なのでcygさんのHPをご確認の後ご来場くださいませ。オンラインでの企画も検討されている様です。もしかしたらそちらでもご覧頂く事が可能かもしれません。

ここ近年、盛岡に行ったらスーパー銭湯にまず行ってすっきりしてから喫茶cartaさんでお茶をしてcygさんに寄って。。というのが黄金ルートだったのですが、今年はそれもできそうもないなあ。。こんな事を昨年度は予想できていなかったから本当に何が起きるか判らないですね。

毎年エントリーして作品を送って、そこで初めて出品できるかどうかのお返事のやり取りをメールを通してやっているのですが、スタッフの皆さんがいつも提出した作品に対して短く感想を添えてくれてるんです(泣)それはどんなご時世が訪れようと健在で、なんだかホッとしました。  

 はてさて、この作品はステイホーム期間中に描いていたものというのは過去の投稿でも供述しました。そしてこの制作は100%自分をいたわる為の作業だったわけで。。世間様には果たして価値がある作品なんだろーか、これを通じて皆さんに投げかけたい事ってあるのだろーか?と考えたのですが。。

ありましたよ!(良かった!(笑))

自分の事を一番に考えて生活してますか?他の人や事を優先して自分の事を後回しにしていませんか?いたわってあげていますか?

そんな事です。

なんだかこの世の中、自分に厳しい人が多いなあと思うのです。おとなになるにつれて立場や肩書もあり、自分の事は後回しにしてしまい周りにとって何がベストか。。を考えざるを得ない事も多いと思いますが、5分でも10分でも自分に立ち戻れる時間が一日の中にあったら良いな、と思うのです。

おせっかいおばさんです。

盛岡は素敵な喫茶店が多いので、もしいらっしゃる事があればコーヒーでも飲んで、観にいらしてください。毎年このアートブックターミナルのカタログが届く度に思いますが、素敵な作家さんがたくさんいらっしゃいます。本屋さんでは手に入らないものも色々あるし、ギャラリー内にはアーカイブ作品を見るスペースも充実しています。

突然ですが、この映画にファンジンの事がちらっと出てきます。パンクカルチャーの事をよく知らずに観たのですが、面白かったです。二コール・キッドマンの存在に全く気がつかなかった。。!

HAVE A GREAT AFTERNOON with a cup of tea

コンビニエンスストアジャーナル

引っ越す度に最寄りのコンビニができる。私はそこにいらっしゃる店員さん達とじわじわとお互いの面識が出来ていくのが実は結構楽しい。

昔、仙台に住んでいた時に行っていた最寄りのコンビニFには、いつも何かの話で盛り上がっている二人の男性店員がいた。年は同じくらい、そしてお客様が自動ドアから入ってくると、いつも二人揃って「しゃせ〜」と声を揃えて出迎えてくれる。しゃせ〜とは「いらっしゃいませ」が短くなった言葉である。

そして今日は暑かったのでシュワシュワしたものが飲みたく炭酸水を買いにふらっとコンビニSまででかけた(気分盛りあがってじゃがりこまで買うとゆー。。)いつも淡々と同じトーンの声で対応する女性店員さんだった。「夜9時近くなのにひとりなんですか?」と突然聞いてみたら「今、ちょっとの間だけそうなんです〜」とやっぱり淡々と返してきた。

その足で外の方が涼しかったから少し散歩していたら、粗大ごみに貼るシールを購入し忘れていたことを思い出して今度は別のコンビニSに寄る。いつもいる若い女の子の店員さんに突然話しかけたら「ひゃっ」と声を出された。いつもよく働いている子だなと思って見ていたが驚かせてしまった。ごめんね。

こんな感じで日常はあまり面識のない人達によっても構成されていく。なんだかそんな些細な事に感謝したくなる時がある。

実はさっきまで「言葉について。。」みたいなよくわからない記事を書いていたのだが、コンビニに行っていきなりこの記事のアイデアが湧いた。どんな高尚な記事を書くよりこの何気ない日々に潜むものに気づいて行くことが、自分にとっては大きな発見なのかもしれない。

週末もご苦労さまです。いつもありがとうございます。

家でお弁当を食べ始めたらなんだか調子が良い案件

左から>> 南瓜・豚肉・玉ねぎのナンプラー炒め / 大根の煮物 / いんげんのカレー炒め / 大根の葉っぱと油揚げの炒め物 をご飯にのっけ

自粛期間中、お弁当を作るのを一旦休止していました。その後、家で作業をするのが常となりお弁当作りから遠のいていたのですが。。。。。。。。。。。。

去る6月28日から復・活!

ふと、お弁当作ろうかな。と思ったんですよね。
せめて月~金の間だけでも。週末は外で食べても良い、もしくはワンプレートでどどんと食べても良し◎。ルールは厳密になりすぎず、楽しむ事を忘れない、以上。

自粛期間が始まってから何だか自分の身体と心にグラつきを感じ、いまいち調子が上がらない日々が続いていたのですが、お弁当を毎日作り食す事で少しずつ復活してきたのでその事を印そうかと思います。

※今から書くことはあくまで私のこころと身体のメンテ方法と捉えて頂けるとありがたいです。

①小さなおかず達をちょこちょこお弁当に詰める事で毎日少しずつ色んな栄養を取るよう心がける
大体週に1~2度大きく買い出しをして一日に1~2品位を目標に作る。基本は手のかかるものはそんなに作らない。お肉やお魚は無くなり次第買い足すスタンス。常備菜を作れる余裕がある時はいっぱい作る事も。その分作れない日もあるのでバランスを取るようにします。

②常備菜をストックすることは、明日に繋がるアイデアを貯める>>溜まると単純に嬉しい
常備菜があると、翌日に新たに作りたいおかずの事を考える余裕が出来ます。冷蔵庫と相談する時、常備菜のタッパーを見つけるとホッとする自分(笑)

後は、買い出しをする段階でよく考える事
        ↓
「この食材を買う事で、いくつのレシピに活かす事ができるだろうか?」
例えばホットケーキミックス買うか、小麦粉買うか?みたいな。あ、でも基本食べたいものをその時に食べるのが一番健康的な気がします。


お弁当箱をみっちりと埋めた後の充実感が半端ない(えー、完成度は置いておきます。。)
私は基本、のっけ弁です。何故ならおかずの汁がご飯に浸みているのを食べるのが好きなのです。昔同僚にはぶっこみ弁当と言われた事もありましたけども(笑)私のお弁当はザ・地味弁なので、味が単調にならないとか(醤油と塩が大半を占める)、色どりが良く華やかなお弁当を見ると超憧れます。


④お気に入りのお弁当箱を使う事でテンションが爆上がりする
私は杉の木クラフトさんのお弁当箱を使っています。西荻窪のとあるカフェで販売していてひとめぼれでした。お値段は少ししますが、毎日使うしご飯も美味しく保存される事を考えると損はない、そしてその通りでした。私は一段弁当箱を使用しています。ご飯から蒸れ出る熱をうまい具合に吸収・放出してくれるのでお弁当箱の中でご飯が汗をかきすぎないから美味しいまま保存されているのです。

⑤一日のルーティーンが出来る
ルーティーンがあるとそれを今日も行った、という達成感を地味に味わえる。また、その達成感は残った時間をどの様に過ごすかということのポテンシャルをあげてくれると思います。

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と、いつにない熱量でつらつらと書いてしまいましたが、より良い健康体を目指して色々と人体実験を繰り返していきたいと思います。今は本当に色んな健康法が溢れていますが、やはり自分の身体で試して実感する事で理解が深まっていく様な気がします。日々トライ&エラー!

でも、何度もいうけどその日に食べたいな、と思ったものに忠実であるというのは大事だなあと思います。食べたい=今の自分の身体が欲しているという方程式ってあると思うので。仮にジャンクが食べたい、と思ったら食べれば良い(葛藤あるけど)でも何故それを欲するか?という事を深堀していくと本当に必要な栄養素にぶち当たると思います(人体実験結果報告一例)

というわけで、これから食します!皆さんも良きランチライムを!

スウィート・ヒアアフター

よしもとばななさんの「スウィート・ヒアアフター」を読みました。このお話は3.11後に描かれたもので、被災された方にも、そうでない方にも、全ての人に向けて書いた小説だということを知り、そうだったんだ。。という思いでなんだか胸がいっぱいになりました。

あの震災という出来事は本当に多くの方が心を揺さぶられ、被災しようがしまいが、たとえ日本人ではなくても、遠い国に住む人達へも小さな波紋となり振動として身体の内部に刻み込まれていったのではないかと思う。

その振動は筋肉や神経、脳にまで行きとどき思考の変化も促す。そう、だから身体はすごく正直何だと思う。自分が何を考えているか判らない、という時は身体の状態を見てあげるとその判らないの正体の全貌の一部が見えてくるのではないか。

今、世界中に蔓延している某ウィルスも、そういった意味ではじわじわと身体と心に影響を与えてくる。しかも”世界中の人々が意識をそこにフォーカスしている、それって本当に凄い事なんじゃないか。昔も疫病はあったけど、インターネットもなかった時代でその存在すら知らなかった人々もいるだろう。ほんと、風のうわさで聞いたんだけど、何か流行ってるの?という人々もいたと思う。

そういった意味では世界中の人々の身体、思考や価値観も切り替わる時期にあるのではないだろうか?

少し話が逸れてしまいましたが、このお話にでてくる主人公は大事な人をなくし、自分の身体にも大きな傷を負ってしまいますが、その彼女の心と身体が治癒していく過程が人との出会いや化学反応を通して新たなステージへ脚を踏み入れていく姿が描かれています。私がいつもよしもとさんの小説を読んでいて良いなあと思うのは、心の動きがすごく微細に描写されているところです。ちいさすぎて見落としてしまうような、こころの動き。こういったちいさな動きは読んでいる世界に色や潤いが一気に増してきます。このちいさな動きというのは自分自身のものでさえも見落としてしまう事が本当によくあると思う。だから、身体を見よう、知ろう、そんなメッセージをも受け取っているように私はいつも感じています。

そしてこのお話には、何か「祈り」の様なものを感じます。お話の中で亡くなってしまった彼への、その彼と一緒だった昔の主人公への祈りを通して、震災の時間を過ごしてきた全ての人々への祈り。私は震災の時、海外に在住していて、自分の非力さを本当に痛感していました。そんな非力な美大生だった私は短いお話を書いていました。火山の噴火で日常を失ってしまった人々がその生活の中にユーモアを忘れずに過ごしていく、そんなお話です。そのストーリーを描いている時によく、これがいつか必要な誰かに届けば良い、と思っていました。そして今になって判った事があります。それは全制作過程に「祈り」が入っていた事です。家族が大丈夫であって欲しい、友人が大丈夫であって欲しい、そして自分もしっかり異国の地で立っている事ができるように静かに静かに祈るように生活しながら書いていたのを覚えています。

「祈り」にはお金や支援物資の様な即効的なインパクトは持たないと思いますが、届くものなのではないかと思う、というか、そう信じたい。その祈りは自分だけよりは誰かと共有する事で、時を経た今この瞬間にも色味を持って思い出す事ができるのではないかと思う。この本を読み終えた後、当時支えてくれた人達の顔を思い出しました。

今日も良い一日を!

じわじわと語りかけるちいさなクッキー

昨日コーヒーを飲みたいと思って近所のカフェに赴きましたが、エスプレッソマシンが故障でカード決済機能もダウン、現金をあまり持っていなかったので希望のメニューとは違うものをオーダーしました。そしたら「もし良かったらこれ、どうぞ。色々とご迷惑をおかけしてすみません」とそっとちいさなクッキーを飲みものと一緒に置いていってくれたのです。こういう場面に立ち会うといつも「粋だなー」とほれぼれします。

外でお茶を飲みながら店員さんの働いている姿を見るのが好きです。私がこの人生の中で何度かトライしてはいつも諦めざるを得ない職種、それが飲食業。。そう、きびきびとした動き、そして後頭部にまで持っている眼を光らせて時間と常に戦いながら調理し、サーブする。食材という賞味が極めて短いものを扱うということは、何かを誤魔化そうものならすぐに見破られてしまう。そんな事を日々息をするように行っている彼らは私の憧れです。

そして拾った球をセッターがアタッカーにトスを回してバズンと打ち込む、例えそれがどんなに難しい球だったとしてもなんとか繋ぐ。そんな一連の流れが瞬時に行われる光景を思い出させてくれる様な華麗なチームプレイを見せつけられると客席でひとり燃えております(元バレー部)

華麗なプレーも見ごたえがあるけど、その中に更に個人個人をしっかりと見てマニュアルにはない人との距離感とか、優しさとかを打ち出せる事も同様に凄いな、と思います。このカフェの店員さんは打ち解けやすい感じで、気持ちの良い対応をしてくれる感じ。70歳位のおそらく常連のおばあちゃんが店先に自転車をとめて「アイス買っちゃったから長居できないんだけど、コーヒーお願いするわー、おほほほほー」みたいな会話をしていて、地域密着でこつこつやっている感じがなんだかこの梅雨の憂鬱をしばし和ませてくれるようでした。

昨日友人ともっと個人個人をみてくれるような社会になれば良いよね、なんて話していたのでタイムリーな出来事でした。