本と街と喫茶店と、行きたい街に思いが膨らむ日々

久々に、神保町に来ました。コロナ前はたまに画材を購入しに来ていたのですが、ここ半年はそれもなく、足が遠ざかっていました。

久々に来た感想。

異様に落ち着く(笑)

街は道路だらけだし、緑もそんなに多いわけではないと思うんだけど、なんでだろう、おそらく古本屋街だからなのか、この異様な安心感よ。。!

しかも、今日は額縁と紙の事で2件画材屋さんに行って相談したりしていたのですが、その道のプロの人達の話を聞くのが楽しくて何回もお礼を言ってしまった。

しかも古い喫茶店やブックカフェ等があって、打ち合わせしているサラリーマンやOLさんから、色んな人が折々に仕事していたり本読んでいたり、いわゆる渋谷だとか中目黒とはまた違った感じの時間の流れがあるのです。

そういえば、昔こんな映画を観た。

失恋した主人公が神保町にある叔父さんの古本屋に仮住まいする事になり、少しずつ立ち直っていく、ざっくりいうとそんな感じ。

この映像に映っている街の姿と今は大分違うところもあるのではないかと思います。私もそこまで足繁く通っているわけではないのではっきり言えませんが雰囲気も少しは変わったのかもしれません。

でも、そこはかとなく安心する感じは、主人公が街の独特の雰囲気に元気づけられるのと似ているものがあるかもしれない。

私は街が好きです。勿論好みはあるけど、それぞれがその街の中で何かに向き合っていて、また帰路につく。その繰り返し。お互い話はしないけど、同士かな?と思えたり、良いエネルギーが流れている空間にいるのがとても嬉しくなる事がある。

こんな事を書いていたら旅行に出たくなりました。あの街やこの街、まだ見ぬ街にいつになったら行けるのだろう。行きたい街リストを作って、今後ひと街ずつ探訪してみるのも、楽しみのひとつになりそうです。

循環するクリアな水とものづくり

何かの作品を作ってああ、満足した!と思う事は今までなかったかもしれない。作り終わった時はできた!と束の間の満足感はあるけど、時間が経つと色あせて見えたり、ここもうちょっとこうすれば良かった、と思ったり、考えが甘かったんだなあ、と思う事がほとんどです、私の場合は。

というか、ものづくりに対して今まで真摯に向き合ってきたか?と問われると胸を張ってイエス!と言えない自分がいる。ものづくりは楽しい、でも私の頭の中には常に外側の条件のあれこれが渦巻いていて本腰にブレーキを掛けてしまっていた事が多々、あるように思います。

作っている時は自分なりに全力投球なんだけど、未来の自分から見ると、へんてこりんな条件に左右されてしまっていて、しかもそれに気付けていないという、ちょっと怖い状況です。

だからこそ自分と言う身体と心のフィルターをいつでも良い水が流れるようにメンテナンスしておくのは本当に大事なんだと良く思います。曇りが掛かっていると、本当に良いものへのアンテナの送受信が鈍るのだと思います。

良い意味でバカになりたい。きっとこんな葛藤の繰り返しなのかもしれないけど、ひとつひとつ挑戦していつでもよどみの無い水を循環させていければと思う。

先週、盛岡のCygartgalleryさんで行われていたアートブックターミナル東北2020が終了しました。ご購入下さった方もいたみたいで、この場を借りてお礼を申し上げたいです。今見返すと気持ちだけはいっぱいで不十分なところだらけです。でも、どうもありがとうございました!

いちばん大事なものはなに?

昨日原因不明のもやもやもやもや~にハックされた。寝たらスッキリするかなと思ったらどうやらまだ滞在しているらしい、長い。。(笑)こういう時って、たいてい自分は何も出来ないのではないかと自信喪失に陥って闇落ちしているのだけれど、まず、何をやるかではなくて、何が出来るかからだなと思い直して日々のあれこれを始めました。日々がないと、良いものは作れませんもんなあ。洗おうと思っていたスニーカーを洗ったよ。夏の太陽という強い味方がいるので高速で乾いてくれるでしょう。。

もやもやには昨日発表になった総理の辞任にもある。これから大きく日本社会が変わっていく時でより良い方向に進んでいけば良いと思っている。だけどしかし、なんだかひっかかる事が一つある。それは今回は体調不良の為の辞任との意に対して猛烈に批判する声が上がっているということだ。

許せないと思う人々がいるというのもわかる、けれど、こんな大事な時に、とか体調管理がなっていない、とか、あげくにはちょっとどうなのというようなハッシュタグまで飛び交っていてSNSを見ているのが辛くなりました。それを言っている議員さんもいて、日本にブラック企業が蔓延しているのは上の人々にその傾向があるから仕方のない事なのかもしれないとさえも思いました。

でも、でもです。ここで最高にもやもやしたのは私も過去にそういう思いを抱いた事があった。「なんでこんな時に休むのかな」「逃げたな。。」とか過去の上司に思った事があります。かろうじて「お大事にしてください」とか「お疲れ様でした」は言えていたと思う。けど、人に厳しく、自分にも厳しかった時期だったのかそういう責める感情は沸いてくるし、そんな事を考えてしまう自分の事も嫌だなと思ってしまってがんじがらめだった事がある。

でも、自分自身が心と身体のバランスを崩した事をきっかけに許せるようになったように思う。やっぱり自分自身でその辛さとか、判らないと心から許せないのかもしれない。

私も昔働いていた所で良く思われていなかっただろう事も沢山ある。けど、向き合ってくれた人達や「お疲れ様」の声を掛けてくれた人達がいるから今ここにこうしていれるのだと思う。

とりとめがない文章になってしまったけど、今になって思うのは人一人の体調を重んじる前に責め続ける事になんのメリットがあるのだろう?という疑問です。昔働いていた所では、とにかく休憩は短く、お客様が取れるようにとにかく走って、という所がありましたが、そうさせていたのはやはりお金の事が原因です。でも走り続ける事で皆の不信感も高まるし、どんどん疲弊していくのが眼に見えるようでした。

今回の事は今までの自分の過去の事も回収されていくような出来事だったので象徴的だったとともにとても疲れてしまった。でもこれからもっともっと自分にもあまく、人にもあまくなっていきたい。認識して許せるようになったらその先にまた違う風景が見えると思うから。全員とそうなれるとは思わない、でもそういう人が身近にひとりでもいたらそれはラッキーかもしれない。そして自分に常に問いかけたい、「一番大事なものは何?」と。

闇落ち這い上がりの途中の文章でスミマセン!良き午後をお過ごしください!

朝のひかり、空気が澄み上がっている時刻

今朝、いつもより早く眼が覚めた。早く起きたら公園に散歩しに行きたいと考えていたので身支度を整えてウォーキングをしてきました。

最近、朝起きたらベランダに出て今日が始まろうとしている空気を味わうのが好きです。(早い時間限定)周りがまだ少し、しん、としていて動きが少なく空気が一番澄み上がっていると思う。この夜がずっと続けば良いのに、なんて考えていた半年前の廃人の私からしたらかなりの快挙です(爆)

しかし、本当に朝早くから働きに出ている人がいっぱいいる。みんながこれから自分の持ち場に行ってやることやってまた家に戻る、それぞれの一日があるんだな、という事を考えると自分もやるべき事を今日もやろう、と思う。

前述したとおり、東京は朝からたくさんの人達が動いていて埃もばんばん舞い上がっていて道路沿いの植物も正直元気とは言い難いと思うのだけど、たまに(特に早朝)すごくきれいに見える事がある。

どのアルバムだったか忘れてしまって恐縮なのですが、swing out sisterのコリーン・ドリューリーがどれかの曲の解説で「いつもは汚いロンドンの街がすごくきれいにみえたの!」と言っていた。多分それと似たような感覚なのかもしれない。

海外と比較すると東京は極めてきれいな首都だと思うけれど、空気はお世辞にもきれいとは言えないし、人は多いしうんざりすることもいっぱいある。けれど、そのうんざりのなかにきらっと光るものが紛れている。

どんなきれいな流行の服が施されているショーウインドウよりも、豪華なシャンデリアよりも、うんざりのなかのきらっと光るもの、の方が結構心に残っている事が多い気がする。そしてそんな中の人々の営みがなによりもいとおしく、大事なものに思える。

今日もいちにち宜しくお願いします。

黒にも白にも染まらないオレ達

夏の雲2020

最近、幸せかそうでないかとは自分の捉え方だけに委ねられているなと思います。社会や周囲の人に決められるわけでもなく、いつでも自分がその選択肢を持っている。

例えば、1週間分の野菜を買いに少し離れたスーパーへ行った帰りにゲリラ豪雨にあって、かろうじて折り畳み傘は持っていたけれどかばんの中はずぶ濡れだわ靴もぐしょぐしょで「なんで買い物が済んだあとに降りだすんだよ」と嘆きたくもなったりしますが(実話)、帰宅して濡れた服は軽く洗濯を廻して今のうちに干してしまえばこの夏の太陽であっという間に乾いちゃうからラッキー、さいわい布団は取り込んでおいたから難を逃れた。

と、思えればそれはそれで幸せ。

今回のこのウイルス騒動。勿論笑えない位大変な事もあり、心が痛むニュースも連日報道されているけれど、今までに考えた事もない未来を思い描けるようになった。何故なら行き先が見えない状態に放り出されてしまったから、自分で思い描くしかない、というマインドセットが出来るようになった。

と、思えればそれはそれで幸せ。

なんかこうすれば幸せになれるとか、こうすると不幸になるとか不安心理をあおってくるものはこの世の中溢れていますが、どんな現実でもその中にただただ自分が存在出来てる事に感謝できればそれは本当に幸せなことなんじゃないかと思う。

昔、某バンドが黒にも白にも染まらないオレたち、と言っていたのを聞いて「黒か白かはっきりしろよ」と若き日の私は思ったのですが、物事って黒白で分けられないものでいっぱいだなあ、某バンドマン達はそんな事を既に悟っていたのか、歳がそんなに変わらないのに早熟ッ!と生意気にも思いました(あはは)。

前述したように自分でその選択肢は勿論できるけど、その選択すら手放せたらもっと自由になるんじゃないかと思う。眼の前に現れる事や人にただただ懸命に向きあって同じ時間と空間を共有する、その積み重ねの先に「私の人生はラッキーの連続だな」とハッと気付ける自分が未来に存在しているのかもしれない。

なぜ君ははぎれを使うのか

キタキツネ

ここ最近ずっと貼り絵を作っています。モチーフは動物や食べもの、風景等。。人間はなんだか作る気にならなくて作っていない。とある時期はポートレートばっかり必死で描いていた時期もあったのになんでなんだろう。

作り始めたきっかけは銅版画で試刷りした紙や切れ端がいっぱい残っていたから。私は普段は断捨離魔なので(笑)必要ないなと思ったらちょっとためらいつつも容赦なくゴミ収集orリサイクルへ廻してしまいます。

ただ、この版画で使用した紙は何故だか捨てられなかった。ハ―ネミューレというそう安くはない紙、というのも勿論あるけれど、試刷りに使用した紙というのは失敗や実験の思い出が詰まってるし、その思い出を分け合う時間が工房の中には確実に流れていたのでそれを使わないからといって手放すのは何だか寂しかったし何かに変換したいなと思っていたからです。

切れ端とかはぎれとか、形ある物を作るとどうしてもでてしまうもの。現実的に用途はないもの、そのようなものの存在を新たに形あるものにしたかった。でも、また形をつくるからといってそこから新たなはぎれは極力出さないようにしたい。紙も細かく切り刻んで素材の質感を出すためにも貼りこんでいけば全てのはぎれが回収され得ます。

素材を買い足す時は勿論これからあると思うけど、極力今自分が持っているもの、触れられるものに焦点を当てて制作していくスタンスをしばらくは取っていこうかなと考えています。アイデア次第で変更する事もあるかもしれないけれど今はそんな気分です。

また、これはずっと思っていた事なんですが、この世の中には人知れず頑張っている人、頑張っているのに評価をされない人、大きな組織という”形or型”からあぶれてしまって、独自のスタイルを保ちつつもインディペンデントな人。そんな依存しない、自分の道を歩んでいる人を観る度に静かに心の中でエールを送っています。

なんか、いつもそんな事を考えているからなのか、このはぎれを使って制作したいと思ったのは。私という媒体を通して、この素材達を型にはめ込むのではなく適切な場所、輝け得る場所ににリロケートしたい。(ずいぶん偉そうですが。。そんな感じです。)

今回の話の流れで言うと、これから、勿論私も含め、個人がもっと自由に自分と言う一人の人間としてこの社会で生きてければ良いと思う。型にはめられることなく、はまることもなく、自分である事を思い切り肯定できる社会。

そうそう、昨日この映画を遂に観ました。タイミングだったなあ。

「なぜ君は総理大臣になれないのか」大島新 監督

こんなひとがいたんだと驚きつつ、とても純粋に応援したい気持ちになりました。3~4回位涙腺崩壊した夜。

坂口恭平展Pastel@tetoka

昨日、神田のギャラリーへ坂口恭平さんの個展を観に行ってきました。いつもTwitterで作品を観ていたので実物を観たいなあと思っていたのです。

場内はたくさんの人がすでに駆けつけていてリラックスしたムードが漂っていました。パステルの作品達は思っていたよりも小さかったけど、引きで見るとほんと、写真かのような印象を受けます。吸いこまれそうな空と海のあお、その周りに拡がる雲の陰影、これを日課として毎日描き続けるということ自体が凄いなと思いました。

。。しかし、なぜか観終わった後、すっきりしない自分がいる。なんでだ、なんでだ、なんでだ!と電車の中でも家帰ってからも考えましたよ。そして今朝起きて、あ!と気づきました。

”嫉妬”?

むーん、このこと書くのもはばかるけどそうかもなあ~、と降参します(笑)どの点に嫉妬したかというと、のびのび~と眼に映る物を素直に描いているところです。坂口さん自身が作品の様なものだからこう、全身で外に向けて息を吐いている、というか出して出して出しまくっているっていう感じでしょうか。その素直さがすごいと思うと同時に羨ましい。でもこれは躁鬱やら色んな表現をやらを模索して辿りついたひとつの結果だとご本人も仰っているので、その努力知らずに羨むというのは随分自分勝手な話なのです。

しかし、良いな(笑)

でもこの感情に向き合った事やこうして言葉に落とせた事が、自分がどんな価値観に縛られているかを更に明確にできたような気がする。といっても私の周りには価値観を強制する人や団体がいるわけでもない。世間が、社会が、とは簡単に言えてしまうけど、結局のところは自分の価値は自分でいつでも自由に決める事ができる。そして自分を縛るか縛らないかの選択も自分でたやすくできてしまうものなのだと思えるようになった。

外に求めるのではなくていつでも自分から変化して世界にその変化を向けていけば良いのだと思う。自分の意識が変わらないことには世界の風景はいつまでもそのまま。まずは自分から、っていうのはこういう事でもあるんじゃあないかなあ。

というわけで、思いっきり毒吐きした気分だけど、すっきり。(解毒剤?)坂口さん、どうもありがとうございます:)

インスタライブが映し出す過去・現在・未来

夏だぜ 暑いぜ おれはカマキリだぜ

この前とある方のインスタライブを見て良いなあと思った事。

この人は今、本当に言いたい事を喋っているんだろうな、という事が判った事です。

テレビではカットされてしまいそうな内容もあったんじゃないかな?話の内容は育児や女性としての生き方といった内容。でも個人的にとても興味深く未知の領域の部分まで聞く事ができたのでとても勉強になりましたし、すごーく楽しそうに炸裂!って感じでこちらも大笑いしてしまいました(笑)

私、普段テレビを見ないのですが(所有していない)、たまに見ると物凄い情報量と共に物凄い疲れに襲われてしまう事があります。やたらとキラキラしているのと、コントロールされている所があるなあとか、重要な話の部分をカットされていたりとか。ふーん、と首をかしげてしまう事がよくあります。勿論、面白い番組もあるし全てがそうとは言いません。ただ、過度にそういう点が際立っているものってある気がするのです。

それと比べるとSNSツールを使ったライブ(インスタライブ、ツイキャス、you tube..etc)はもっと個人的な意図で動かす事ができて、より発信者の本音を受け取る事が出来るのではなのかとも思います。(発信している人が本音をきちんと述べていれば、の話ですけどネ)

とある音楽家の方は曲を作る前の鼻歌からの工程を見せてくれたり、歌番組では見せない様な不完全なしぐさや言葉遣いだったのをみて「すごい時代だなあ。。」と改めて思ったものです。自宅で撮っていたので余計にリラックスしたムードが伝わってくるのかもしれません。そしてなんだかその方がその方をとても身近に感じる事ができるのですよね、不思議な事に。

何が言いたいかといいますと、大衆に向けて、というのは過去のものなのかなあと思ったのです。今は自分の声が届く人、もしくは何らかの繋がりで自分の発信が届いた人達とちいさなコミュニティを作っていく時代になりつつあるのではないかと思うのです。ここ近年、地方に移住する人々や小商いという言葉もよく聞くようになりました。

大衆、ではなくなると同調圧力や、同じ方向を見るための過剰な上からのコントロールが無くなってくるのだと思う。そしてお互いに個人、と成りえた時に改めてお互いの違いを認識して、認めあえるのではないのかな?

なんて、色々とつらつら書いてしまいましたが、本当に一人一チャンネル時代が来ているのかもしれません。そしてより本質的に、個人が個人として生きていける時代に着実に歩を進めているんじゃないかな、と。そう考えると対面でまた再会出来た時、これまでよりもより深い関係も築いていけるような気がしています。

しかし。。暑いぜ、夏だぜ、おれはカマキリだぜ。。
昨日肩にカマキリが乗っかっていてうわっとびっくりして払ってしまったのですが(小心者(汗)ごめんよ~)、しっかりと床に着地して微動だにせず。さすがだぜ。。

失敗談を聴いてもらう心強さよ

以前描いた絵であんま好きじゃないなー。。と思ってじーっといつも眺めていたのがとある日別のものに見えました。

。。りんごじゃあないか!!(色あいが)

ということで、貼り絵に急遽変更(変形)!

こういう何か別のものに変身したり、副産物が得られると何だか嬉しくてホクホクします。

話は少しそれるのですが、昨日伸び伸びになった髪をカットして頂きました。東京に来てからずっと同じスタイリストさんに担当して頂いています。

いつも私のぼさぼさゴワゴワな髪をきれいに整えつつ、色々と私の話を聞いてくれてその事にただただ感謝しています(ありがとうございます✨)

よく、思うのですが人の話を聴くってもの凄いテクニックがいると思うのです。如何に相手の話に耳を傾け、自分軸を失わずに返答するか(しかも美容師さんの場合、ハサミを動かしながらですよ)。あまり相手に同調しすぎてもいけないしかといって聞き流してしまうと空気の流れが一気に変わってしまう。

昨日、思わずポロッと話してしまったここ最近の失敗談があったのですが、話を聞いて頂いて、「良い失敗だった」と改めて思いました。背中を押してもらった、そんな感じです。

人はただただ聴いてもらう=自分の考えている事をリリースする事でとても軽くなる事ができるのではないかと私は思います。

私の失敗もこのりんごの様にメタモルフォーゼしますように。

猫村さんというひと

昨日、ちょっと気分が沈む出来事があったのだけれど猫村さんを読んだら一気に元気になりました。外で読んでいたので笑いをこらえるのがかなり精一杯。。マスクしてて良かった(笑)

猫村さんといえば最近実写化もされていましたよね。まさか。。!って感じでしたが。

しかし、猫村さんを読んでいてあんなに笑えて癒やされるのは何でなんだろう。

「猫」という存在であり、スーパー家政婦というポジションまで獲得している。なんならcasa brutusで働いていたりもする。その特異な経歴だけではなく、その理由は猫村さんのキャラクターにもある。

少しうっかり者だけど働き者で皆のケアをするのが超得意。お料理も上手だし、その持ち前のリラックスした感じと裏表がない人柄(猫柄?)が次々と出会いを呼び海外ミュージシャンとレコーディングしちゃったりもする。

ただ、人の話に首を突っ込みすぎてよく怒られている。そして怒られてもちょっとは気にしてクヨクヨしない。

きっと猫村さんにとって周りにいる人が悲しい顔をしていたら、まず、大丈夫ですか?と言ってあげるのは当たり前の事なんだろう。

今の時代の人間関係はどうなのだろう?もしかたら猫村さんの世界よりは少しドライなのかもしれない。人の事は人にしかわからないから放っておきなよ。そんな声を聞くことも良くある。確かにそうだ。その人にしか解決できない事だらけだ。

だから、猫村さんタイプの人がいたら、まずうっとうしがられるんじゃ?とも思う。

でもどうだろう?皆、うっとうしがっても嬉しい気持ちもあるんじゃないだろうか。やはり人は人に気にかけてほしい、わかってほしいという欲求がある。だから、掛け値なく皆の事を気にしている猫村さんの存在は癒やしともなりうるのだ。

昨日、私の隣にもどうやら猫村さんがいたらしい(笑)

「まああっ、どうしたのっ。コーヒーでも飲みますか?わたくし最近美味しい豆を見つけたんですのよっ」といった具合に(笑)自戒を込めて言いますが、やはりほしよりこさん以外、猫村さんの言葉は紡げないデス。。

きっと猫村さんが見ている世界は私達よりももっともっとシンプルなのかもしれない。それは、本質を見る、という意味で。

そんな猫村さんに私はマッサージを施してあげたい。まあ、猫村さんもどうぞ休んでくださいよ、と。そそそ、とお茶を添えて。