夜明け前がいちばん暗い

備忘録として 1月30日~2月2日:始乳

夜明けを知らせる霊鳥とみなされていた鶏が卵を産み始める時期。長く暗い冬の終わりと春の到来を象徴しているとのことです。

でも今って一年中卵が食べられるのであまりピンとこないですよね。。

卵も有精卵や無精卵、平飼い卵などいろいろありますが。。人間側のコントロールの側面が見えてくるなあと思います。私は余裕がある時は平飼い卵を買って食べています。食料の裏側って本当に知らされていない部分があると思うのでその現場にいないものとしては分からない事だらけですが、自由にのびのびと暮らしている子達の卵が食べたいなあなんて思うのです。

食べれるだけでも有り難い事だと思うのですが、買い物は投票でもあるし、食べものは自分の身体を作るのでストレス下の中で育ったものよりは自由な環境で育った食べものをチョイスしたい。これを人間に置き換えて考えるといつもストンと腑に落ちます。

長い冬の終わり、そして春の兆しが見えてくる時期。今のこの状況にも光が見えてきて欲しい。でも焦らずゆっくりとだねと友人と話していました。

開けない夜はないし、夜明け前が一番暗い。

みなさまにとって明日も良き日になるよう、どんどん良くなる明日であるようお祈り申し上げます。

【参考文献】
・くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記 / うつくしいくらしかた研究所 / 平凡社
・こころもからだも整うしきたり十二カ月 / 井戸理恵子 / かんき出版
・暦のある暮らし 旧暦で今を楽しむ / 松村賢治 / 大和書房

外側に承認を求めること

最近改めて思う事があった。それは外部から認められようとすることほど自分をすり減らす事はないということだ。もう自分でも分からないレベルで癖になっており、事が上手く運ばなかった時にとても落ち込んでしまう。

必要なのは自分で自分を満たしてあげる事、認めてあげる事なのに、外側の眼を気にしたり、社会的立場を考えたり、人に気に入られようとしてしまう行動を取ってしまう事が後々に自分の首を絞めてしまう事になる。

そして何より怖いのは、そうする事によって自分が本当は何を望んでいるのか?という事が置き去りになってどんどんズレた方向に進んでいってしまうという事かもしれない。

承認欲求は誰にでもある、といえばそれまでかもしれないし、人間臭いといえばまだ救いがある美談になりそうな気もする。けど、なんだかそういうの、本当にもういいやっていう気持ちになった。無意識レベルで昇ってくる事なので容易でないのは承知なんだけれども、日々の小さな選択から自分の望みにフォーカスする行為はいくらでもできるし、なぜそんなにも承認を求めるのか、その理由を指し示すような幼年期の記憶や経験は自ずと思いだすと思うからその都度ケアをしてあげることもできる。

人は変化が起こる時、孤独になります。でも自分は独りだ、と思っていても本当はそうではないと思う。ちょっとふわふわした話になってしまうかもしれませんが、今日公園で生ぬるい風が吹いていて、木々がざわざわと音を立てているのを聴いた時、なんだかとても不思議な安堵感に包まれました。自分も自然界の一員でそのままで大丈夫なんだと背中を押してもらった様な、そんな感じがしたのです。

昨日、とある方がお悩み相談をとある方に寄せていました。お悩みの内容は、子供が制服を着たがらないといった内容。私は個人的に着たくないのならそれでも良いのではないかなあとも思います。通園している途中で突然着用したくなるかもしれないし、なにより何故着たくないと感じるのか、その根源にその子しかもっていない個性が潜んでいる様な気がする。社会的・世間的な問題にもぶち当たるのでこれもまた容易ではないと思うけど、その子のその欲求というものを外側の眼を気にしてうやむやにしてしまうのは何か、その子の中に灯っている炎を消してしまう様な気もする。その子がその後どういう決断を下したのかは分かりませんが、正直であれ、と思いました。

そして最近、自分と10歳以上歳の離れた子たちと触れ合う機会が多かったのですが私が出会ったその彼らは嫌なことにはきちんと嫌、と不満を言える子達が多かったです。その点でもなんだか明るい未来を感じる事が出来たし、自分を見直す良いきっかけにもなりました。

風の時代の到来と言われていますが、自分土の呪縛にだいぶかかってんなーと思った、よ!(爆)

話が二転三転しましたが、誰にも替えがきかない自分の人生なので自分の心が思うままに突き進んでいってぶち当たっても苦しゅうない、それは自然のサイクルの中にきちんと入っている証拠だと思えば痛くないと思うのです。何より、自分の意識が変われば周りも自然にそのサイクルに組み込まれていき、そこで立ち往生してしまう人間関係とは縁が薄くなっていく事もあると思います。全ては新陳代謝、と、自分の手に出来た傷が治癒していく様子を見て思います。

スケート靴ですいすいと

備忘録として 1月25日~29日:水沢腹堅

沢の水も凍る時期。寒いですね。。

寒いと身体も心もきゅっと委縮してしまう様な感覚があります。それにプラス、今日の様に気圧が低めだとますます憂鬱な気持ちになってしまう事がありますが、春は確実に近付いてきています。公園や道端でちらほらと梅の花が開いていました。

いつもの道や風景も厚い氷が張り詰め、日常が非日常になってしまいますが、そんな非日常をスケート靴をはいてスイスイ、軽やかに楽しめたら。長い長い格闘や沈黙が続くと精神面を保つのが難しくなってくる事があります。でもそんな気持ちを軽やかに変える事が出来る道具や発想の転換を扱えるのは人間ならではの力なのだと思います。

私は昨日草野マサムネさんの「ロック大陸漫遊記」を聴いて、マサムネさんのあの淡々とした語り口や音楽に対する探究心になんだか心底癒されました。取りあげていた特集はarctic monkeys。昔に初期のアルバムを聴いた時、かっこいいバンドだなあと思ったのを覚えています。最近の音源もとても良さそうなのでチェックしようと思いました。メンバーも良い感じに加齢しており(その分お前もな、と自分に言い聞かせましたが(笑))、今起きている展開を楽しみにしたく思いました。

https://www.tfm.co.jp/manyuki/index.php

自然物にも癒されるけど人が作った物にも心底癒される事がある。人が手を加えたものは人工物と括られるけれど、そういった概念を超えて自然物なのではないかと思えるものも時たまあるんだよなあ。。そういうのって自我を超越してるのかな?

skating on the ice together

【参考文献】
・くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記 / うつくしいくらしかた研究所 / 平凡社
・こころもからだも整うしきたり十二カ月 / 井戸理恵子 / かんき出版
・暦のある暮らし 旧暦で今を楽しむ / 松村賢治 / 大和書房

苺タルトと茶葉の味

いつかこのお話を書きたいと思っていたのですが、以前、家で作業するのがどうしようもなく辛くなりふらふらとカフェに入った事がありました。

この緊急事態宣言下でやはりうかつに出歩いてはいけないなとも思うし、でも自分の好きなカフェを応援したいという気持ちもある。テイクアウトにすれば良いのに、とも思ったのですが猛烈に家とは違う環境に身を置く時間が欲しくて、イートインでしばし滞在させて頂きました。。

その時に苺のタルトを食べたのですが、美味しくて美味しくて。。(泣)身体が酸味を求めていたのか、じわっと口の中に拡がる甘酸っぱさと、しっかりとバターで焼かれているであろうタルト生地の食べ応えに感動してしまいました。

一緒にミルクティーも頼んだのですが、茶葉の味がミルクの中にしっかりと含まれており、五感を刺激されたひとときでなんだか眼が覚めたというか。お店の方にもその後思わず「ありがとうございました」と申し伝えた上にインスタにまでDMを送ってしまった。

何よりこの状況の中、常にベストの食べものを用意して快く迎えてくれたお店のスタンスがとてもありがたく感じました。後は皆が日常から逃げる拠り所を作ってくれている事。そう、飲食店って食べてお腹を満たすだけではなく、避難場所になったり誰かとの時間の共有の場でもある。

知らない土地や国に行った時って少し心細くなる日もあって、そんな時またちょっとあのお店で良い時間を過ごしたいな、と思える場所があるととても救われるし、そういった意味で心の拠り所になる。スペインでスタバを見つけた時無性に嬉しかったです。あ、なんか知ってるマークがある。。って思った(笑)

旅に限らず日常の中でもそういった事はたまにあります。

この状況だからこそいつも身近にあるものや場所・人のありがたみが沁みてくる。そしてひとりのお客として感染対策をはじめ、その場を共有するという意味で敬意をもっと払えるようになりたいなとも思いました。

少し話は逸れるのですが、この前とある方がお金を支払う時に気持ち良い顔で支払っている人って一握りだよねー、とお話されてたのを聞いて、「はて、自分はどうかな?」と思った。出来ているかな?いや、あんまり出来ていないかもしれない。。(泣)

そういった意味でも食べたい!とか買いたい!という欲求に忠実になれば自然とお会計時に笑みがこぼれるもんかな。という事は、不本意な買い物をしているときに無表情になっているということか。。

自分に出来ることと言えば敬意と共に購入する事、そのお店の人達にきちんとお礼を言う事、そして少しでも感動したことを文章に載せる事かな。。と思いました。私の文章力ではあの時の感じを隅々まで伝えきれないのが悔しいけれど、今日TokyoFMのスカロケで飲食業界のリスナーの声を聞いてうーん。。と思いまして。消費者の「ありがとう」という声がどこかの誰かに届けば良いと思って、書く事にトライしてみました。

そして医療従事者の方のお話も聞くと、本当に身が引き締まるというか。。きちんと自分の生活を整えて健康でいよう、自然治癒力をもっともっと高めようと思います。後は私が出来る眼の前の事をこつこつとやっていく。なんだかシンプルな様で日々のコンディションは微妙に違ってくるから常に内なる声や身体の声に耳を傾けていきたいなあと、思った日でした。

感謝の気持ちを込めて。

寒中見舞い申し上げます

備忘録として 1月20日~24日:款冬華 20日二十日正月大寒

20日は言わずもがな。。大寒、一年でもっとも寒い時期。寒くて身体がこわばってしまいますが、温かくしてこたつにみかんでも食べて、ゆっくりお休みください。

寒さの中行う寒稽古が行われていたらしいですが。。考えただけでブルブルブル。。(遠い目)。そして今時期は水がとても澄んでいるのでこの時期につくったお酒やお餅はとても美味しいと言われていたとか。

そんな寒さの中でも、ふきのとうが芽を出し春は確実に近付いている。

そして二十日正月とはお正月の締めくくりでもあるので(まだ続いてたのか!と正直思ってしまった)、お正月に食べたおせちやお餅の残りを食べつくす日でもあるようです。地域によって、呼び方(頭正月、ホネ正月、シマイ正月、アラ正月等・・・お魚の骨や頭と一緒に大根などの野菜を煮込んで食べる慣習からこの様に呼ばれるという説も)や行われる行事は異なるようです。

いずれにせよ、作物の予祝をするものが多く、本当にこの一月という時期は数々の行事が行われ今年一年の行く先の為に祈りを捧げる。そんな月でもあるのだなあと思いました。

いつの時代でも人々は疫病や災害の不安に苛まれており、自然や見えないものに祈りを捧げる事で安心を得ていたのが、現代ではお金や物質を得ることで安心できるという事にすり替わっている一面もあるなあと思いました。勿論、ひとそれぞれなので違うという人もいると思います。

なんにせよ、すがりたいものがあってそれで安心できるのだったら良いと思うけど、これから求められる事って今まで以上に”助け合い”になるんじゃないかなと思いました。自分ではコントロールできない事やどうにもならない事って本当にいっぱいあるし(今のこのご時世の様に)、出来る事と出来ない事も山ほどある。だからこそ補い合うし、それがそれぞれの個を認める事になるのではないかな。。と。自己責任、という言葉を他者にも自分にも、今まで容易に使っていた自分が少し恥ずかしくなりました。

でも昔の人々も色んな疫病や飢饉を乗り越えてきたのだと思うと、なんだか心強くなるのです。まだまだ知らない事だらけですが、日本人や日本の文化って面白いなあと改めて思っています。

【参考文献】
・くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記 / うつくしいくらしかた研究所 / 平凡社
・浮世絵で見る年中行事 / 中村祐子・大久保純一 / 山川出版社
・こころもからだも整うしきたり十二カ月 / 井戸理恵子 / かんき出版
・暦のある暮らし 旧暦で今を楽しむ / 松村賢治 / 大和書房
・歳時習俗事典 / 宮本常一 / 八坂書房
・三省堂年中行事事典「改訂版」 / 田中宣一・宮田登 / 三省堂
・民間信仰事典 / 桜井 徳太郎 / 株式会社東京堂出版

ブレてはまたピントを合わせの繰り返し

日常って本当にトライ&エラーの繰り返しだなあと、ここ最近よく思います。

あれこれ動いてみて上手くいく事もあればそうでない事もあり、その度に見つめ直してはまたやり直す。の連続だと思う。でも動いてみないと見えてこない風景も確実にあるわけでその度にちょっとした驚きと気づきがある。

就職活動している大学生何百社受けてでもまた面接いくんス、という話を耳にする度すごいなと思う。ある程度の割り切りも必要だし、気力と体力が必要ですよね。そのタフさに拍手を送りたいです。

すぐクヨッとしてしまう私は、駄目という事はご縁が無かったのだと言い聞かせる様にしています。この広い世の中の一部しか見れていないわけだし、自分は誰からも必要とされていないなんて思う事は1ミリもない。

そう思うと現代は可能性が拡がったのだなあと思います。地球の裏側の人にまでコンタクトを取ろうと思えば取れてしまうこの時代。

でも可能性は拡がったけど、そこで自分がブレていたら良き出会いも逃してしまうのかなあなんて思っています。うん、だから私はブレていたんだな(笑)なんか、動いては気づいてまたやり直し、ほんとこの繰り返しだけど貴重な時間を過ごしているなあと感謝しています。

でも、動くとブレますよね?写真の通り。(この写真は歩きながら連写したものです)

じゃあ、今度はしっかりと立ちながらピントをしっかり合わせて撮れるように、その巡り合わせを大事にしていきたいと思います。

手ぶら散歩

昨日から試しているのが手ぶら散歩。財布はポケット、携帯は家に置いていきます。ここ最近、鞄を持って出かけると肩がこったり、荷物をしっかり持とうとすると自然に肩に力が入ったりして(寒くてただでさえカチカチなのに!)なんだかなあ、と思っていたのです。

私の家のまあまあ近くに週末限定でオープンするベーグル屋さんがあるので昨日ちょっと足を延ばした時にふと、手ぶらでいこうというアイデアが沸いて出たので手には何も持たず出発しました。

いや、気分が良いなあと思いました。背中と腕が解放されている感じで身体が軽い!後は、携帯を置いてきているというのが大きいかと。持ってるとついつい何かをチェックしたりして散歩に出たにも関わらず結局眼が疲れているという事があったので、私にはこれ位で丁度良いのかなあなんて思いました。

後、私の場合、しっかり歩いて燃焼するぞ、とか、何時までに帰るぞ、と設定しちゃうと自然にせかせか歩きになっちゃうんですよね(泣)

どちらかというとぼけーーっとしながら歩く方が物凄くリフレッシュできる感じがします。なんというか、周りの風景は一応眼に入っているんだけどどこか遠いところと交信している感じで、日常の色んな事忘れているあの瞬間が入ってくるとリセット度高し。

そして家に帰ったら作業するぞ!と意識高めで帰宅すると全然作業できなかったりする(笑)どちらかというと、「。。やるか。。。。。。(え~?)」みたいな感じの方がサクサクサクサク進んでいく事の方が多い。

大人になると、不思議な事が多いわ。。

もう少し若い時は頑張ってこそ!的なマインドが大きかったのですが、今は肩の力を抜いていかにリラックスして取り組めるかの方が良い仕事が出来る様に感じている。というか、仕事でも、日々の事でも、自分が何をしたくて何をしたくないのか、自ずと精査されている様な気がしてなりません。やっぱり特に、コロナ騒動が起こってからかな。。そういう思いが一段と強くなった様な気がします。でもこれって多分私だけではないと思うのですよね(皆さんはどうなんでしょうか。。?)

久しぶりにお会いしたいつもお元気であまり弱音を吐かないような方が不安を口にしていたり、少し驚く事が多いのです。

人類、いっせいに肩を並べて全てを一旦停止する日とか一日だけでも設けてもいいんじゃない?と思ってる私はやっぱり能天気なのか。。協力して、ってよく言われるけどそういった協力もたまには良いのでは?皆優しいし、人に凄く気を使うから表面上は全然疲れていない様に見せかけている人がいっぱいいる。でも皆色んな事情を抱えて生きている。

前向きに、なんて言葉を使うのもうんざりな日もありますよね。それも良いと思うし、自分に甘く、リラックスして好きな事を思う存分にやっても全然良いと思います。

寒さも極まってきておりますのでどうぞどうぞご自愛下さい!

。。と、散歩の話でしたよね(汗)いつもながら脱線が多い。私の散歩スタイルと同じ(はは)。お読み頂いて、ありがとうございます!

リアリティがある話

備忘録として 1月15日~19日:雉始雊 15日小正月

この辺りから雄雉がケーン、ケーンと雌雉に求愛のしるし(ラブコール!)として鳴き始めるのだとか。春へ向かうサインのうちの一つらしいです。

正直なところ、これを聞いた時全くピンとこなかった。私、雉を見た事がない。。?!

今の私が都会の真ん中で感じるリアリティは、いつもより澄み渡っている冬空に星がくっきりと見える事かもしれない。強いて鳥と言えば、最近自宅の前に張っている電線に見慣れない鳥がいる。窓越しに近づこうとすると気配を察してばさばさーっとすぐに去ってしまうので、未だに未確認のままなのだけど、多分つぐみ?ではないかと思っている。

小正月は民間やお百姓さんのお正月といったイメージがある様です。

一年で最初の満月の日に行われており、旧暦で見ると今年は2月26日に当たるようです。この小正月はその一年の豊作をお願いする行事が多く、その一年にどれ位の食物が頂けるかは本当に死活問題。。と。でもそれは現代も同じなのに、農業とは切り離されて生活している人が多いのも手伝って、これらの行事は盛んではないのか。。という事にも納得がいきました。

少し話は脱線してしまうのですが、リアリティや経験を持って物事を理解する、という事は身体への響き方が半端ないというか。。そんな事を思いました。雉の話にしても小正月にしても確固とした実感を持つ事は正直難しかった。でも、知らないからこそ想像する、という事は何に置いても必要な事なのだと思う。判らないけれど相手の立場に立って考えてみる、その後、その相手と同じ経験を自分も重ねた時に、真の意味で相手を思いやれる事ができるのかなあとも。だからどんだけ痛い目見ても、経験できるってラッキーなのかも?

丁度このご時世は対面のコミュニケーションが少なくなってオンラインでのやり取りが多く、それこそやり取りをしている相手を想像するのが難しいケースもあるかもしれない。けれど、文字や写真や動画の取り方、そんなひとつひとつの細かい所に全集中してみればぱらぱらと、自然に分解されてその人がどんな方なのか、自ずと分かってくるのではないだろうか。少なくともそれが今、この現実=リアリティなので、思う存分この体感を味わいつくして、自由に外で交流できる日が来たらもっともっと色鮮やかに、解像度が高い外の世界や人との関わりも体感する事が出来るのではないかと思うのです、というか、そう信じてる!

【参考文献】
・くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記 / うつくしいくらしかた研究所 / 平凡社
・浮世絵で見る年中行事 / 中村祐子・大久保純一 / 山川出版社
・こころもからだも整うしきたり十二カ月 / 井戸理恵子 / かんき出版
・暦のある暮らし 旧暦で今を楽しむ / 松村賢治 / 大和書房
・歳時習俗事典 / 宮本常一 / 八坂書房
・七十二候のゆうるり歳時記手帖 / 森乃おと・ささきみえこ / 雷鳥社
・福を招く食と暮らしの七十二候 / 石倉 ヒロユキ / 幻冬舎エデュケーション
・くらしを楽しむ七十二候 / 広田千悦子 / アース・スターブックス
・鳥の雑学事典 / 山階鳥類研究所【著】
・日本の野鳥420 / ♪鳥くん(永井真人)・永井凱巳 / 主婦の友社



1日遅れてしまいましたが。。

備忘録として 1月11日 鏡開き(異なる地域もあり)

早くも2021年の大後悔。私は鏡もちを飾らなかった。。。。。。ああ。。。

歳神様をお迎えするための鏡もち。三種の神器の鏡の形に似せて作られたという記述があるそうです。それだけ神聖なものとして崇められていたのでしょうか。

そしてそんな神様が滞在していたお餅を切ってはならぬという事で刃物ではなく木槌で割って頂くと。木槌の準備はばっちりなのに肝心のお餅はないという私のお正月の悲劇。。確かに刃物で切っては痛いですよね。いや、木槌も痛いと思うけど。。

割られて出た餅の玉は皆に分け与えるという意味でもお年玉のルーツにもなっているとか。その点からも計画的に切り分けられるよりは割って飛び出た方がサプライズ感があってお年玉の嬉しさも一味違った感じになりそう。。

平安時代には長寿を願った歯固めの儀式というのが一緒に行われていたそうです。歯は命!

知らない事だらけで上澄みの知識しかすくえていない感が拭えないのですが、行事のひとつひとつが色んな出来事に結びついているのだなあと、改めて日本文化の面白みを感じました。年を追ってひとつひとつ、自分自身の経験を重ねていけたらよいなあと思います。来年は鏡もち!今から鼻息荒め。

【参考文献】
・くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記 / うつくしいくらしかた研究所 / 平凡社
・浮世絵で見る年中行事 / 中村祐子・大久保純一 / 山川出版社
・こころもからだも整うしきたり十二カ月 / 井戸理恵子 / かんき出版
・暦のある暮らし 旧暦で今を楽しむ / 松村賢治 / 大和書房
・「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み / 永山久夫 / 河出書房新社
・季節のなかの神々: 歳時民俗考 / 小池淳一 / 春秋社
・日本鏡餅組合 / http://www.kagamimochi.jp/