
食べ物をお皿の上に丁寧に盛り付ける事が出来ると異様に嬉しい。
写真のトースト、目玉焼きの下にはアボカドが入っているのですが、きれいに輪っかの様にスライスしたアボカドを並べる事が出来ました(うっかり目玉焼きを載せてしまい写真は取り損ね(泣))
今まではダイス状にカットしたものを乗せていたのですがインスタやnote等できれいにスライスして乗せている方のポストを見てやってみました。
そして最近ついにこんまりさんデビューをしました。。!いやいや、あそこまで注目されている理由がようやく分かったというか、眼からウロコといわんばかりになるほど、と思う事が多くて最近ちょこちょこ断捨離をしていました。
私は物を溜めるのがあまり好きではないのでそんなに捨てるものはないと思っていたのですが。。彼女のいう”ときめくもの”に従ってチェックしていったら捨てるもの結構あった(笑)
その結果、空間に余白ができて物をゆったりと置いてあげる事を自分は今までしていなかったのだなあと新たな発見がありました。
というより、自分が心地が良いと思える空間に近づこうとしていなかったのかな?と思った。
それによって何が起こったかというと、心地よく物が並べられていたりするとほんと心が穏やかになるんですよね。食べ物の盛り付けもしかりです。
更に言えば、それをやった自分、エライ。なのです。
ナチュラル系の本ではよく、「ていねいに」という言葉と共に素敵な暮らしを送っている方々が素敵な写真と共に登場していたりしますが、実は私あれを見ると少し白々しい気持ちになる事がありまして。。
きっと性格がひねくれているからなんだと思いますが、きちんと見せ過ぎている印象(作り込み過ぎている)が否めなくてこれはナチュラルと言えるのか?と考えてしまう事がありました。
でもあれって「ナチュラル」というよりは「自分にとって心地よい有様」を表現していると言う方がしっくりくるなあと今回の出来事を通して思いました。
心地よい有様って結構作り込む事でもあると思う。
それが生活していくにつれてだんだんズレたり崩れたりして、その度にまた手直ししたりする。
つまり手をかけるという事が日々とその心にちいさな充足感を生むのではないかと思う。
それをする事で場を好きになるだけではなくそれを決行した自分も好きになれる。そういった好循環もあるのではないのかなあと考えていました。
実際、アボカドがきれいに並べられた時すごく幸せな気分になりました。かなり単純案件ですが(笑)その日一日が気持ち良く過ごせたというか、かすかな心の支えになっているのです。
話はだいぶ飛躍してしまうかもしれないけれど、もし自分が動く事で自分を少しでも好きになれるのなら、自分が幸せかどうかって外側の基準では本当に決められないことだと思う。
「好き=幸せ」という方程式って、「嫌い=幸せ」の方程式より、正しいかはさておき、力強いと思うのは私だけでしょうか。
私はよく思うのですが、「自分は不幸せだ、ついていない、恵まれていない」という設定を自分に課しては絶対にいけないと思う。
自分でそう思ったら本当にそうなってしまうからだ。それによって周りの人達にも「あの人は不幸せそうだ」と思わせてしまう。
ないものに眼を向けるよりはあるものへ、心地の良くないものは心地が良くなるように手を掛けてあげて、自分の手足を少しでも良いから動かしてあげる。いつでも自分の味方でいてあげること、許してあげることをしてあげる、それだけで充分なのではないかなあと思う。
しあわせを外側の基準で決める事は出来ない。いつでも自分の内側で基準は決まる。
というかこの時代、生きてるだけで奇跡です。それだけで凄いし今落ち込んでいる人も自分を褒め称えて欲しいなと思う^^
皆さまどうぞ、良き土曜の夜をお過ごしください!