ただ見守るという事について 

常々、人は人の評価を求め、それを基準に自分というものを評価してしまう。そんななんとも人間らしくとも、時に自分の可能性を限定してしまったり、才能を見限ってしまったり、激しい思い込みの中に放り込まれてなかなかその地獄(もしくは天国?)の釜から抜け出せないということもあるのではないかと思う

 

私は昨日、とある大きな挑戦(私の中では清水ダイブに近いくらい勇気がいったこと!他の人に言わせたら「そんなこと〜?」と言われてしまうかもしれません😅)をしました

 

その大きな挑戦の最中、私の上司は遠く離れた所で作業をしていて。おそらく遠くから見守っていたのでしょうけど、一言も声を掛けてきませんでした

 

そしてその挑戦が終わった後も(無事に終了しました)、評価を下すことなく「どうでしたか?」と一言聞いてきただけでした

 

そんな一連の流れを昨晩振り返っていたのですが、その出来事がとてもありがたいなあと感じていました

 

評価がないというと成長がない、という方程式が頭の片隅をよぎるのは私が今までの社会人生活でその様な価値観を抱いて生きてきたからかもしれません。もしくは評価があってこそ成長があり、今より更にもっともっと良くなっていく、豊かになっていく、効率的になっていく、、そんな考えが刷り込まれてしまっているのかもしれません

 

 

けれど評価がないって

 

 

今のこの私の現状・頑張りをそのまま受け止めていてくれている。私がベストを尽くしたという事を理解してくれている。何よりフラットな目線で見てくれているのだな、という風に昨日の私は感じたのですよね

 

褒められるのは嬉しいけれど、少し度を過ぎると上から目線になる可能性もある(クソバイスになることも、、)

 

怒られるとそれなりに悲しくなっちゃうし😂

 

人にあれこれ言うのって、自分を大きく見せようとする行為とひねくれ者の私は思ってしまう(自戒を込めて、、)

 

何より一番怖いのは自分が他者の評価を常に求めてしまう=他人を通してしか自分自身を認識できないということです

 

過度に心配するでもない、かといって完全なる無関心でもない

 

そっと見守る、という大きな愛を受け取った気分でした

 

あのフラットな目線は本当にすごい。人をコントロールしようという要素を感じなかったから

 

愛の形は色々ですけどね

 

 

人によっては超怒られたいという方もいらっしゃるでしょう😅もしくは超超アドバイスが欲しい!という方も

 

これはあくまで私が感じた優しさのひとつであり、自分もただただ目の前の人を認識する、そしてコントロールを手放す、

 

何より自分の事は自分が一番にわかってあげたいなあと思うのです

 

でも、私憑依体質なのでうっかり仕事にのめり込むと我を忘れて消耗してしまうタイプらしいので適度にガス抜きしながらじゃないと生きていけないという事を自覚しました。人生とは面白く常に発見に満ち溢れているなあと思わざるを得ない日々です。もうね、疲れちゃうから。これ書いている今、ドトールさんに逃げ込んで書いています。だからひとり旅とか好きなんですよね。。

 

 

とひとりごちてしまいましたが

 

ジメジメがすごいですね!低気圧と共存していけるようにしたいと思います

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