ヒントは子供時代 / see you in the futureとは子供の私が投げかけた言葉だったのか! 

よく相手の理想像に合わせない、という言葉を聞いたりしますが、それもありなんじゃないかなあと思います。

それを続けていて苦しくなってきたらやめれば良いだけの話だし。

しかもその役を演じた事によって自分が求めている像というものが更にくっきりしてくるかもしれない。

私は最近色んな人たちと言葉を交わす中で気づいたことがありました。

今の生活で関わらせて頂いている方々、また、これから出会うであろう方々との関わりの中で私はどういう自分でいたら心地よいのか?満足できるのか?という事をふと思ったのです。

きっとそこにはブレる自分もいるだろう、自信をなくしてしまう自分もいるだろう。

でもそのブレたり自信をなくしてしまった時に立ち戻ってきたいあるべき自分の姿とは?

の答えが昨晩突然やってきたのでびっくらこいちゃって🙀

あーそういうこと!と納得&もう子供の頃からやってたわ〜という事に気づきました。

子供の頃からやっていた。。という事にひとりで勝手にしみじみしちゃって。社会人生活の中で社会人とはこうあるべき姿、というものに自分という照準を合わせようと一生懸命だったんだろうなあ。。

とか何とかもう終わった話なので良いんですけど!

やはり色んな事のヒントは子供時代にあるな、と思いました。

未来で待ってて 

昨日、小さな嘘をつきました。

 

こんな出だしで書くのは初めてなのでドキドキするのですが、書いてみようと夜にタブレットを引っ張り出してきました。

 

嘘、というか知らないふりをしてしまったのですよね。事の詳細までは詳しくは書きませんが、本当の事を言い出すタイミングを逃してしまって、何だかだんだん言いづらくなってきてしまって結局言えなくなってしまったというパターンです。

 

知っているのに知っていないと言ってしまったことにちょっとした罪悪感を感じてしまいました。

 

タイミングって大事だよなあ。。と思ったのでこれから気をつけたいなと思いました。

 

自分の臆病さや自分を守りたいという気持ちが働いてしまった事への罪悪感におしつぶされそうになりかけたのですが、責めても何も始まらないな。と思ったのと、この苦々しい経験というか汚点の様な経験を得れたことにちょっとした感謝を覚えました。

 

かなり自分都合の解釈で気分が悪くなってしまった方がいたらごめんなさい。

 

なぜ感謝したかというと、これで他の人が似たような、もしくは同じような事をしても許すことができると思ったのです。

 

それに真実をいつでも口に出すことが正解なのだ、というある意味潔癖な固定観念が自分の中にあることにも大いに気付かされました。

 

そうか、自分はそういう考えに縛られているところがあるのだな、と。そしてそんな自分を許せないままここまできてしまったのだなと思ったのです。

 

つまり自分のその正しさを求めて生きていると自分の事も追い詰めてしまうし、他者の事も追い詰めてしまう。正しさというとても曖昧な剣を振りかざしているようなものです。

 

そしてこの自分が汚れていく感じが何とも嬉しい。。というと何だか変な感じがしますが、なんか、良いじゃないですか。どん底まで落ちないと上には這い上がれないといった感覚に近いのかな、この世界の闇夜を知って初めて光の存在に気づくというような、書いていてよくわからなくなってくるのですが、何だかそんな感じ。。😂

 

こういうことは初めてじゃなくて前にもあったと思うけど、その度に罪悪感に押し潰されていたor忘れていた。

 

けどこうして言語化してある種の自分を許すという行為は初めてだったかもしれません。

 

あの時の嘘は🤥自分にとっては自分を守るための最善だった。何より、その行為を犯してしまった自分の事をしっかりと認めてあげよう、そんな事を考えていました。

 

この事も経験と共にまた考えが変わってくるのかもしれませんが、今の私はこんな考えを持っていてアップデートできる機会があるのかと思うと、どんな自分に会えるか楽しみです。

 

未来で待ってて!

 

最近この動画にハマっています

 

 

未来で待ってて、むちゃ良い言葉

しおりがない旅に出る理由 

遠くに住んでいる友人の展示を観に行ってきました。よく、あの場所でサバイブしながら作品を作っているなあ。。と、尊敬の念を覚えました。

そして作品の繊細さと同時にその作品達は日常という舞台の地続きなんだ、と染み入る様な感覚を覚え。。

生活というものは一見地味だけど大きな力を持っているのだと改めて思わせてくれた展示でした。

どうもありがとう😊

さて、そんなことを考えながら出発迄コーヒーを飲んでいたのですが、私は何故に遠出をしては活力を得ているのだろう?と思いました。

僕らが旅に出る理由、みたいな話になってきますが

それはズバリ日常の偉大さを実感するためなのかもしれない、と思いました。

勿論、自分の知らない新しい土地・人・物に出会えて心地よい刺激を感じられるという点もあります。

けれど、日常の対極にいても考えてしまうのは自分の生活。でも、より客観性を持って考え得る事が出来るように思います。

そして自分は何者なのか、何を望んでいるのか、そんなこともいつもよりハッキリしてくるような気がします。

というか、そんな事考えていたら人生があっという間に終わってしまいそうですが🤣そのプロセスもまたやりたい事なんでしょうね。

そう、私はひとりでブツブツと哲学してるのが好きな人間なんです。。旅に出ても観光名所も巡らないし、とことん歩いて土地感覚を身につけたいと思って歩き回った末に疲れ果てているという。でもコーヒーだとか、本屋だとか、アートの匂いがする面白エリアにはとことん敏感です。

旅ベタとも言えるかもしれないけれど、これもあり。失敗に直面しては次の手段を考えていく、旅のしおりをいっさい書けないタイプだと思う(笑)

だからきっと損をしている事も多いと思うけれどそんなあれこれを面白がっている自分もいる。

そして旅をするたびにいつも思うこと。

観光だけだとその土地の表面、あるいは断片的にしか理解を得れない。

当たり前といえば当たり前なのですが、住んでみないとその土地の地力だったり人々の概念というものは見えてこないんですよね。

最初の直感を私は信じますが、やはりそれだけでは見えないものもあるので、ひたすら歩き回るというスタイルを取ってしまうのかもしれません。


夜は短し歩けよ乙女

読んだ事がないのですが↑このお話の舞台をウロウロしていたみたいなので読んでみようかななんて思いました。

主体的に生きる

昨日無事にお誕生日を迎える事が出来ました。


こんなに嬉しいお誕生日は生まれて初めてだったかもしれない。。何故なら平穏無事にこの日を迎えられたから。

今まではそうじゃなかったの?と聞かれればいや、そうでした、平穏無事でした。

でも去年は本当に身体の不調でずっとハラハラ、くよくよすることも多くて、思わずお誕生日前夜に良く乗り切ったなあ。。としみじみしていました😅

でもね、これからもきっと色んな出来事がお待ちしているかとは思いますので、その時に毅然とした態度でいられる自分であるよう、心と身体を逞しくして行きたいなと思います。



そんなお誕生日前後、私の頭の中をぐるぐるしている言葉。以下に記します。



主体的に自分の人生を生きたい



ここ数日何かずっとこれからどうすれば良いのかわからない事へ対するもやもや〜〜があって、解決という策を見つけ出したわけではないのですが。。要は私は主体的に生きるという事がしたいのだな、という一つの答えを得ました。

主体的に生きてきているようで全然そんな人生ではなかった。

いつも人の顔色を伺って、誰かが作ったシステムに乗っ取って突き進んでいたように思います。それがその時は楽しくても、いつも最後の方には疲弊している自分がいるのをしっかりと認識はしていたのです。

でもどうすれば良いのかわからなかった。

だからコロナ後はフリーになってちょっと怖い一歩を踏み出してみたけれど、うまい方法もわからず、病気にもなり、今に至るという流れになっていました。



この流れが良いかどうかは置いておいて、そして自分が思うような主体性がそこに生じているかと言われれば、うーーん。。全然。。😂


でも試してみてこういう感じなんだ。という感触とそれに伴ってこれから生きていくためのいくつかの枝道を開拓できたように思います。

あれがダメならこちらの方法もある。といった感じでしょうか。



こうして考えると主体的ってとても大きくて大変で自分には出来ない!と尻込みそうになってしまうのが現状なのですが、小さなところから始めればそれがいつかは自分の確固たる主体性に変化してくのではないかな、と今日ふと思いました。



それはまさに仕事中。。(余計な事を仕事中に考えるタイプ)。今日は色んな事を詰め込み方式で覚えなけれないけない日だったので少しため息が出そうだったのですが、その事自体にコミットしていく体制をつける。そして詰め込んだ言葉を自分の言葉に置き換えてより自分ごととして捉えていく。。

自分というオリジナリティを色付けしていく

そんな事の繰り返しで色んな事が展開していくのではないかと考えています。



これを書いている今、今日詰め込みしたことをノートにまとめていたのですが、何だか自分の言葉を綴りたくなって、そうしないと自分の存在の糸がプツンと切れて風船の様に🎈何処かにふわふわと漂って行きそうな感じがしたから。

最近、暇があると仕事の事を考えてしまったり、何かをしなければ!という強迫観念に駆られていたので余白を持ちつつ進んでいきたいとも思う。これも主体的に生きるの一歩かな?と思います。



メッセージをくださった皆さんへ、本当にどうもありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします😊

変わる前はもやもやするのだ

いつもやっている事にやる気が持てなかったり違和感や億劫さを感じたり。

これをネガティブと捉えれるけど、自分の変わり目なのだと捉えたい。

変わろうとしている自分がいてでもどうすれば良いか(未知だから)わからなくてだからモヤモヤする。

けど、それで良い。

なりたいイメージを重ねていくだけ。

部屋の輪郭、あるいは快適さについて 

大きな出来事があった日には言葉がなかなか出てこない

“平和“という舞台裏には道が見えなくなるほどに草木が茂ってザワザワと音を立てている

だからこそ小さなことで自分を満たしていく必要があると思う

部屋の一部を機能的にしたり、好きなものを置いたり、好きな友達と一緒にご飯を食べる時間を設けたり、冷蔵庫にあるものだけで地味だけど一生懸命ご飯を作ったり、明日早起きする為に今できる事を考えたり、タスクに少しだけでも良いから着手したり

自分の世界の輪郭を幾分くっきりさせておくことは、外側で何が起こっても安心して帰れる自分の家を作っておくことでもあるのかも

そんな事を思った

昨日、今年イッチ嬉しい言葉を同じ職場の方から頂いた

なんと、姿勢が良いですね、とな!!!!!

お世辞だとしても本当に嬉しかった。そう、それが暑さの白昼夢の中、幻の私の姿を見ていたとしても。。

そんなこと考えた事なかったし常に改善したいと思い改善策は取っているものの、日々の動きは乱れを生み、また調整し、また乱れ。。の繰り返しなので時系列がごちゃごちゃになってしまいそんな実感を伴う事がないのだ

というか白昼夢だったとしてもその一瞬の自分の姿をキープできるようにコツコツコツるわーーーーーー!!!😂むおおおおおおお、嬉しいい