生きている

全体を見た上で伝えることが決まる。という過程を目の当たりにした日だった。日々の観察と理解って本当に大事。

今日、某所で店員さんが「そんな所にドアが!?」という所に入っていった。秘密のドア。ちょっと吹き出しそうになる😂

梅雨冷えが加速した今日。体調管理が難しいなあと思う。今日は今日とて少し気温も上がり気温差が身体にのしかかってくるし。

それでも適応して生きている。それってすごいこと。

今日、枝豆を少し収穫した。

枝豆は収穫した直後に食べるのが本当に本当に美味しいというお話。そして収穫した後も呼吸をし続け代謝の為にエネルギーを使っている。だからおおよそ6日後位にはエネルギーを使い果たしてしまって美味しく無くなってしまう。

そんな話を聞いて、確実に生きている。と思った。

よくよく考えればどの野菜にも当てはまる事だと思うのだけれど、改めてその事を文字を通して認識したらすごい事だと思った。

人間は地上から離れてしまったら肉体が動かなくなってしまうし。でも身体が動かなくなっても生きている状態と言えるのだろうか。それともこれは49日の様なものなのだろうか。

色々と考えてしまった。

ちなみに枝豆の皮の部分をベジブロスで食している人もいるという記事をネット上で見つけ驚愕だった。。!なるほどねえ、確かに葉っぱだし、栄養もたくさん詰まってるし。。ちなみに皮をフライにしてチップスみたいにして食べる方もいるそうです。

そうと聞いて今ベジブロスを少し仕込んでみました。

どんな味なのか、ちょっと楽しみ🟢🟡🟢

レモンイエローインザレイニーデイ

 

 

 

今日目覚めて

昨日からうんうん唸るように考えていたことを朝目覚めても考え出したので

やめよ!と思った😂

しばし忘れる&時間の解決に身を任せる&先を遠目で見据えつつ、今この現状の事、眼の前のことにとにかく取り組もうと思う。

と切り替えたらかーなーリースッキリ!

ちなみにスッキリ繋がりだと今晩財布を磨いたらこれもまたスッキリ!これ習慣にしよう。。財布がスッキリするだけじゃなくて気持ち的にも本当にスッキリするよ。。

本日も梅雨らしい一日で☔️

シャワーよりもひと網細かい網の目をくぐったような線のようなシャワー。
降る、というよりも身体にまとわりつくように降り積もるような雨だった。



昨日、郵便局にうっかり折り畳み傘を忘れてしまって😭取りに行くのもかなり面倒なルートだったのと、かなり長い期間使用したものだったので思い切って買い替えた。

しかし。。傘ってあまり買うことがないからどんなのを買えば良いんだ??!と正直戸惑いました。自分がどんなものを欲しがるかわからなくなっている傾向が顕著にありますねー

似合う・似合わないではなくて、そして値段が、とか機能が。。とかあまり考えずに買おう、と何件かまわった後に思った。そう思ったら明るい色でパステルカラーに近いものが浮かんできたのでレモンイエローのものを買ってみた(でも白いドットが散りばめられているのだけれどあんまり目立たないタイプ)

いつもリュックの脇に傘を忍ばせているんだけど今ほぼ毎日使用しているリュックが混んで色の対比が激しいわー。ってこともあまり考えず購入した。というか、購入した後に気づいた。

地上0.5cmの溝をじわじわ埋める 

朝の公園の中でストレッチや呼吸を整えるワークを行ってみた。

 

家の近所は割と早朝から工事が常に行われていて自然音がかき消されている傾向があるのだけど、公園は広く、木々のざわめきや鳥の鳴き声がするすると入ってくるし、身体の緩みも早いような気がした。

 

身体に手をあてると‘’反応‘’というものがある。

 

お腹に手をあてるとグルグルとかきゅるるという音を立てて腸の中をガスが悠々と通っていく事もある。

 

自分の身体なのに何故にこんなにも近くて遠い存在なのだろう。

 

いつも自分の事は他者を通して強くあぶり出されるし、わかっていたつもりでわかっていなかった事を大人になって知ることが多い。もしかしたら死ぬまで気付かない事もあるのかもしれない。

 

そして起きもしない未来に怯える想像力は長けているのに相手を慮る想像力に関しては何故に乏しいのだろうとも思う。

 

遠い未来の計画をするのはとてもスリリングで楽しい行為。

 

けれど、そこに縛られすぎると地上0.5cmに浮いている綱の上を歩いている感覚があり、対応しきれずまた地上に振り戻される事がしばしばある。

 

でもその地上でのワークをひとつひとつ進めていく事で茎が育ち風雨でえぐられても土寄せをして地上とその0.5cmの境目がじわりじわりと距離を縮めていくのではないかとも思う。

 

答えは今このときにしかなく、何をこんなこと。。という些細な行為、言葉がその茎を太くしてしなやかに、どんな強風にも耐えうる身体を作ってくれるのではないか。

 

何かにモヤモヤしているとき、それは身近な事をクリア出来ていないから喉に魚の小骨が引っ掛かっているような違和感を感じる。でもその小骨は不幸中の幸い、ラッキーボーン。

 

何を見つめるべきか、改めて省みるチャンスなのです。

月が綺麗な夜に 

昨日駅のエスカレーターに並んで上に昇っている時、眼をつぶって身体の感覚だけでエスカレーターを降りてみようとした

 

光がぱーっと入ってくるのをまぶたの裏で感じながら身体が平行になったな。。?と思って眼を開けると何段か手前だった

 

足裏に感じるあのガコン、というエレベーターと地上部の境目を感じる前に眼を開けた

 

やはりちょっと怖いんだろうなー おしい

 

 

眼に見えることを一時的に遮断して見えないものに思いを馳せてみる

 

すると不思議にも他の器官があらゆる情報をキャッチしようとする

 

ただ私はその感覚を最後まで味わえなかっただけ

 

それは怖かったから、エスカレーターでつまづいてしまうんじゃないか、転んでしまうんじゃないか、変な眼で見られるのではないか

 

そんなあれこれが邪魔をして眼を早く開けてしまった

 

 

頭であれこれ考えてしまうその前に自分の感覚を信じる
全身全霊で、つま先にまで神経を張り巡らせて

 

この時私は嗅覚まで鋭敏になれなかったけど、もしかしたら地上に近づくにつれて地上で起きているあれこれの匂いも感じ取れたのではないかな、今度また挑戦してみよう

 

 

月が綺麗な夜に

身体と魂が一番生き生きしていた時間、からのヒント、とか大豆ミートとか 

梅雨入りしそうですね。

 

人間にとっては憂鬱になる時期でもありますが、植物にとっては恵みの雨。発酵も進むし巡ってくる季節に何も間違いはないのだと思わせてくれるような時期に感じます。人間ももちろん何かしらの調整期間ではあるんでしょうが。。夏に向けてコンディションを整えていくような💪

 

 

今朝、ふと降りてきたメッセージがありました。

 

歳を重ねたら衰えというものは必ず訪れる。けど、その衰えはシンプルな事を継続していく事で大きなものにはならないんじゃないか

 

といったメッセージでした。

 

また、自分の人生を振り返って身体と魂が一番元気だった時期はいつか?と言った問いもあったので考えてみました。

 

14〜16歳くらいかな。。?

 

身体の疲れは何のその、というのはこの数字が物語っていますが、この頃の私はファッション雑誌を隅から隅まで読んで色んな洋服は自分で作る事が出来るんだ!というスローガンをもとに実験しながらあれこれ誰の目も気にせずに自由に布を裁断したり縫ったり、そういえばフリマも初めて参加した時期だったかもしれません。

 

思い返せば、家族が作ってくれたご飯を3食食べて友人と意味もないことで笑い、勉強はそんなにしていなかったかもしれなかったけど良く寝ていたように思います。

 

そう、私に必要だなと思ったシンプルな事とは朝ごはんとお昼ごはんをしっかり食べる。晩ごはんは軽めに食べる。しっかり寝る。これ位です。

 

でもこんなシンプルな事が出来ていなかった。ほんとそれだけなんですよねえ。。

 

 

社会人になってからというもの、サービス業がほとんどだったのでご飯を食べる時間は大幅にずれる事が多かったし(デスクワークの時はもう定時にご飯!という感じだったのでリズムが掴みやすかったと思います)、日付が変わってから帰宅することもしょっちゅう。そりゃシンプルな事も難しくなるよな。。とあまり自分を責めない方向で都合よく考えています😂

 

でもそれがあったから今この気づきがあるので!良い教訓です。

 

とにかくそれをやり出してから調子が良いんじゃないかな〜と勝手に思ってるのですが。身体もだけど心も。ちょっとの事でくよくよしなくなりました。

 

あと、時々変に暴走する食欲が少し収まったように思います。

 

実験的にですが、この前の休日に少しリズムを狂わせた日を設けて見たのです、が、うーん、やっぱりほんのちょっと調子狂う感じでしたね。そういう日があってこのシンプルさの偉大に気付けるので良いのですが、たまにで良いなと。

 

やっぱり自分で手をかけた分、身体は応えてくれるのだと思った出来事でした。

 

 

とか言いつつ、今朝は仕事の前に近所のドトールで朝食を取ってきました。ここ最近真面目にお弁当も作っていたのでガス抜きの日が欲しいなと思って。そしてしばらくパンを禁止していましたが今朝は許しました(だってドトールさんはご飯メニューはないから)

 

そしてその朝食の時間が何だか良かったのですよねえ🥯☕️

 

テラス席で食べたのですが、なるべくスマホを見ずに環境音を聞いて良く噛むことに一生懸命になってみたり。ちなみに大豆ミートのサンド・柚子胡椒豆乳ソース(だったかな?)とお腹が少し緩かったのでアメリカンにしました。大豆ミート美味しかったです。

 

いつだったか大豆ミートのハンバーグも食べたことがありましたが美味しいですよね。ベジタリアンやヴィーガンの方も日本でどんどん増えてきているし、チェーン店でそういったメニューがあると嬉しいんじゃないかな?その方達に限らず健康面で配慮している方々もいらっしゃるだろうし。

 

ベジメニュー、日本はまだまだ浸透している状態ではないですよね。。その中で外食しづらかったり理解してもらえなかったという状態もあったのではないかと思うので、色んな人がいるんだ、という理解が拡まってきている事の証だと思いたいです。

 

自戒を込めて、ですが、眼の前にいる人が自分と同じ考え・食の趣向を持っているわけではないと認識するのが第一歩かなあと思います。何と言ったって身体が違うので、インターネットやテレビでこれが良いよ!と言った食品が必ずしも良いとは限らないのです。

 

話が長くなった上に脱線してしまいましたがここまで読んで下さいまして本当にどうもありがとうございました。

 

先の事にくよくよせず、今という時間を感じきり楽しんでいけるような日々を送れたらと思っています。皆様もどうか本日も良い梅雨前の一日を🌞

死んでる様に生きるのはノーセンキュー

5月について半分記憶喪失状態ですが、過ぎ去るのがとても速かったし新しいことが色々と始まったりして慣れない事ばかりで生活のリズムを整えるのが難しかったように思います。



天気も不安定で心も身体も不安定だったように思いますが、色々あっての今よね、と思っています。

実際下旬には吹っ切れたようにガンガン歩き回る時間を作ったりして新鮮な空気を味わってきました。というのも少し遠出してきたのです。それは聞きたいお話会があり、たまたま休みも重なって、しかも後押しをしてくれる様に仕事もスムーズに片付いたりお天気も急に晴れてきたりこれは行くしかないと、少し疲れ気味の脚で向かったのですが、現地に着いたらその脚の疲れはどこへやら。それだけ身体と心に風が吹き抜けた数日でした。



その場所は何十年も前に訪れた事があるのですがその当時の記憶は全くなく、でも何だか全体的に懐かしい感じがする街、空気がとても軽くて人も良い意味で丁度良いという感じでとても居心地が良かったのです。

ほんと何というか帰るのがとても惜しくなってしまう感覚とはこのことか

まずは本を通じてしか知らない方の生のお話を聞けたこと、それは行きた書籍を読んでいる様な感覚で、でもそこには本だけでは味わえない音や匂いや感覚がある。そして同じような興味を持った方々が集まっている空間の中に身を置くというのが稀有な様な、必然の様な不思議な心地よさと刺激がありました。



こうして非日常に身を置くことによって自分の日常を俯瞰して観れるのだなあとも改めて実感する事ができました。

少し仕事や日々について視野が狭くなっていた辺りだったので私の事を知らない人たち、土地に脚を踏み入れるというのは本当に自分がまた生まれ変わるような体験なのかもしれません。



そしてまた日常に戻ったわけですが、ちょっと、今までにない感覚が襲ってきまして。。

それは、“生きる!“と事を唐突に強く意識し出したことです。

当たり前のこと過ぎて恐縮なのですが、ちゃんと食べてちゃんと寝る。そんな当たり前の事をきっちりやりたい。そこにエネルギーを注ぎたい。ちゃんと自分のコンディションを整えていつでも自分の真ん中に入れるようにしたい。

そんな事を強く思いました。

それは真面目にやる、という事ではなく、この身体を大事にして身体を通して今自分の周りにあることを全身で感じ取っていきたい、といった感じです。

死んでる様に生きるのはノーセンキューです。



もうそのことを感じるとふつふつとゆっくり沸騰してくる感じがあって日々のありがたみとまだ見ぬあれこれを楽しめるような、そんな感覚が余韻として残りました。

色んな事が重なってなのかよくわかりませんが、もっとじっくり色んなものを味わいたいなと思えるようになりました。

https://stand.fm/channels/5f79c921f04555115d2523fa




そうそう、この方のポッドキャストを聴き始めたのもあるかもしれません。何だかねー感覚が開く感じがするんですよ。

そうそう、感覚を開く、という練習も強化していきたいと思います。

感覚をシャットダウンしないと生きられないような時代は終わりを告げました〜と勝手に思っています。そんな時代あったのか?というそもそもの問いがありますが、それは私が勝手に作り出していた想像の時代なのかもしれませんね。

感覚を開いて生きていける時代はもうとっくに存在していたけど私が気づいていなかっただけです。



梅雨が始まる6月だからこそ自然のたてる音に耳を澄ましていきたいと思います。



梅雨冷えもあるかもしれないので身体を温めて過ごしていこうと思います。
長文読んで頂きましてありがとうございます

小さな巨人 

 

5月は色んな感情と共に目まぐるしく変化を遂げているような季節に感じます。それは野菜の生長にも似ていて暖かくなって多くの生命が目覚めだして太陽は高く風も心地よい、でも自分の身体がぐんぐん上に伸びていくというのは想像以上の変化体験なのではないでしょうか。野菜の気持ち、を勝手に想像。

 

そして生長と同時に周りにいる虫たちに身体を食べられたり、それでも共生する力、自己のアイデンティティをきちんと持っている姿を見れる時は何より嬉しい気持ちになります。

 

色んな感情が本当に自分の中にほとばしり、複雑になったり悲しくなったり後悔してしまう事もあったりしたけれど、その時その決断が自分にとって最善だった、と思えるようになったかもしれません。

 

うっかり自分のことを責める、責め責めモードに入る瞬間もあるのですがそれはかなり健康的ではないという事に気づいたし、何より自分の事を許してあげると他者をも許してあげられる。と私は思うのです。

 

だから誰かを攻撃している時は自分の事を攻撃しているのと何ら変わりないように思ったりもします。

 

そんな事を体感出来たということは他者の存在があってこそなのですよね。

 

それは良い体験もあまり心地が良くない体験でも自分が見ている世界であってそこには色んなメッセージが散りばめられていると思います。

 

というか、今月はすてきな友人たちとの対話やメッセージのやり取りが多くて、そして新しく出会ったひと達との刺激を通してまた新たな自分を発見したり、何だか大袈裟だけれど生きているって、ただ息をしているだけでとにかくすごいんだなあと感じます(大袈裟😂)

 

 

そうそう、その中ですてきなご家族に会ったお話をさせてください。

 

お仕事上でお会いしたご家族なのですが、とにかく何だか良い気しか感じなくて。というのも話していてとても気持ちが良いしカラッとしているし、何より物事を「できるか、できないか」ではなく「やりたいか、やりたくないか」で考えているのですよね。

 

もちろん、できるできないも考えていらっしゃいました(お金のこととか、場所のこととか、物理的な条件諸々を)

 

でもその根底には「やりたい」という気持ちと「その選択は気持ちが良いものなのか」という感覚をすごく大事にしているように私には見えました。

 

そしてお話していてすごーく感動したのが、ご両親がお子さんの意見というものをすごく尊重していらっしゃるということ。

 

元々、今回私たちのところにお話しにきた理由はお子様が「やりたい」という意向があったみたいでご両親はその意見を汲んで色々と調べた結果ここにたどり着いたとのことなのです。

 

でもその、物理的な条件とか色々絡んでくるとどうしても大人の話になってしまうというか、最初は子供が言い出しっぺだったけどいつの間にか大人の話になって「じゃあやるか」か「やっぱ難しいかも」という話の展開になることって多いのではないのかと思います。

 

けれどそのご両親は一つひとつお子さんに「あなたはそれを本当にやりたいと思っているの?それはできることなの?」ということを確認していました。

お子さんの事をひとりの人として認識しているようでとても眩しく見えました。

 

 

私は「小さな大人」という言葉が好きです。

 

小さな大人とは子供の事。

 

子供はただからだが小さいだけで大人よりもはるかに人間らしい小さな巨人だと思っています。

 

思わず自分それ出来てるかなーと思いました。仕事でたまに子供と接する事もあるので。いや、出来てるかどうかではないですね。やりたい、です。

 

すごく良い出会いと対話をありがとうとお礼を伝えたくなりました。

 

一つひとつ丁寧に体感していく。その積み重ねがとても幸せなのではないかと思う最近です。

フレーム・イン ! or アウト ? 

今年の四分の一が終わった。。??

 

という衝撃の事実を前に少し驚いております。時間が経つのは早く、今年の一月を思い浮かべると自分は全然違う生活をしていたなあと、あれは夢だったか何かの映画だったのではないかと思えてしまうそんな雨の5月の始まり。

 

雨が午後から本格化してきてじわじわ低気圧に襲われそうになったので、とにかく歩こう!と思い大股でしっかり小一時間歩いてきたら全身が温かくなったのでとてもびっくりしました。

 

普段からなるべく歩く様にはしているのですが、自転車の比率が多くなったり座り作業が多くなる時はやはり何か自分の身体の中で燃え切らないものがあるし、自転車と歩きだと使う筋肉が違うのですよね。

 

そんな事を考えながら過ごせているからとても平和で幸福な5月の始まりなのですが、昨日これから自分はどんな自分になっていきたいのかな?という事をちょっと真剣に考えていました。

 

正直なところ私、なりたい自分なんてものがないのですよね。

 

昔はアーティスト!とか思っていたけれど、何かを作っている時点でもうアーティストなわけですし、世の中の人々全員をアーティストと思っていますし(だって料理作ったり、空間を作ったり、イベントを作ったり、立派な想像行為だと思うのです)、なんだかわざわざその肩書きを主張するというもの窮屈に感じてしまうのです。枠の中に括られてしまう様な感覚もあって。(ひねくれているだけなんでしょうけど、そしてどこかのSNSにはその肩書きがまだ残っているかもしれません)

 

あくまでも私はそう思う、というだけの話なのですが。

 

でも、肩書き、とかの話ではなくこういうマインドを持った自分になりたい!というのはあります。

 

それはお恥ずかしいのですが、自分に自信のある自分=自分を信じることができる自分です😅

 

ここ何ヶ月の私はといえば人生の、そしてお仕事の大先輩方に囲まれて仕事をしていて、しばしば自分の言葉を失ってしまう場面が多かったからです。それに比例するようにnoteもブログも言葉を見つけられず更新がすっかり怠っていました。

 

全く自分が今まで関わったことがなかった分野に足を踏み入れたからどうしようもないことなのかなあとも思うし、経験を自分の言葉で説明する事を実践として出来ていないのかもしれません。

 

難しいなあと思いつつも、この自分の身体を通して体感していくことだけなのかなと思います。

 

そして自分は進んでいないな、立ち止まっているのかな?と思える様でも確実に一歩は進んでいるはずなのでそれを認めてあげる事に尽きるな、と。それこそ自分を信じるという事につながっていくのではないか。いついかなる時でも自分は幸せで大丈夫、と思えるマインドが積み重なる事でそれは安心→自分は大丈夫という自信につながっていき柔軟性が出てくる→それはどんな肩書きを背負う事になっても大丈夫という事に極論ですが繋がっていくのではないかと。

 

要はなんだか焦ったり人の眼を気にしていたんでしょうねーという事を改めて思ふ。人が求める様な人物像を勝手に妄想してそこに当てはまろうともがいていただけなのかもしれない。

 

こういうトラップって仕事だけではなく日常に本当あるな。。と気づいて愕然とすることがあります。

 

なんだかどうしようもないダラダラした日記になってしまいましたがそんな事を思ったので言葉で記録しておこう。。と思った次第です。。というか、ハッ、これもまた人の👀を気にして書いている!😂まあ、人間でいる以上の課題なんだろう。ただただ書きたかったから書いた、ただそれだけで良いのにねー

有償とか無償とか、じわじわ案件 

嬉しいことも悲しいこともほどほどにじわじわと感じる。

 

血糖値がバビューンと上がったり下がったりしないようになるべくバランスを見ていく,といった感覚が心の平穏を保てるのではないか?と考えています。

 

私は結構極端な性質があると自負しており,今までの人生で喜び・悲しみ・その他全ての感情のメモリが大きく動いていたのでこの感情の処理の仕方には少々違和感を感じる場面もないとは言い切れないのだけど,ああ、じわじわするのも良いのだなーと感じている今日この頃です。

 

 

春です。

 

気温や気圧の高低差がそれこそ両極端だったりでなかなかバランスが保てないのですが、いかがなものでしょう。

 

 

 

まず一つ目。

 

 

最近、一年前くらいにいた状況と似たようなことがあったのです。

 

その時はその状況にいるとイライラ・モヤモヤしてしまうことが多く、それを周りのせいにしてしまうこともありました(ひどい💧)

 

でも今回はそういった感情は起こることがなく、むしろ楽しいとか嬉しいとか、ちょっとした喜びを多く感じる瞬間があってこのコントラストを不思議に思っていました。

 


なんでそうなったんだろう?と考えてみた結果、それは結構単純な事でした。

 

自分の言葉を以前より多く相手に差し出した

 

事です。

 

全部が全部自分の言葉というわけではないし本音というわけではない、けど自分が感じている事・考えている事を話す、というアクションを取りました。

 

相手がどう感じたかはわからないけど、自分の事を話すことで自分という存在を成立させたとでもいうのでしょうか。

 

よくよく考えると至極当たり前の事なんですけどね😅

 

 

そして二つ目。

 

 

今現在、無償で取り組んでいるものがあります。1ヶ月に1回の頻度でトータルで時間を換算すると10時間以上は取り組んでいるかもしれん、と昨日お風呂の中で脳内計算をしておりました。

 

なんで無償かというと、私が自分からやりたい!と声を上げた取り組みでした。

 

だから、無償でもいいや〜、というか無償か有償かそんなことあんまり考えていなかったのですよ。

 

でも周りから見るとやはり「えー!」という人もいるし、私も第三者の立場だったら同じ声をあげていたかもしれません。

 

正直なところ、少し前までそういった無償の行為というものに私自身も違和感を感じていましたし、やるのならば、そしてお金が絡んでいる方が身も心も引き締まる部分もある、と考えていたのです。

 

その気持ちは今ももちろん自分の中に存在しています。生活のこともあるし、そうしなきゃやってられんよ、といった感じです。

 

でもその無償の件に関しては、やりたいという気持ちが優っていたからなのか。全部自分の地肉になるなという予感がありました。

 

 

そしたらですよ

 

 

ちょうど昨日その無償の案を提出してさあ、どうだろーと思っていたら自分の予想を遥かに超えるポジティブな反応があって驚きました。

 

 

嬉しいもあるけれどびっくりの方が大きくて、それこそバランスを保とうとなんとかしていました😅

 

しかもお礼のお品物を頂いたり(新鮮野菜!)、一部報酬として返ってきた部分もあったりで「うええええっっ???」とびっくりしてました。

 

それと同時に頭の片隅で

 

 

今、自分は他者に感動を生むことが出来たのかもしれない

 

 

という事を考えていました。

 

その感動が巡り巡って品物となってお金となって返ってきた。お金はエネルギーだとよく聞きますが、そういう事なのか??!と生まれて初めて肌で実感できた出来事だったかもしれません。

 

なんだかうまいこと言えないし、お金の事に関しては奥深くてまだまだ勉強が必要だと思っています。けれど、私は今までこんな風に実感を伴って経験をしたことがなかった様な気がする、から大きな出来事でもありました。

 

そして品物やお金を頂くのももちろん嬉しい、でもそれよりもそこに点在する人々の気持ちを垣間見れたのがもっと嬉しかったかもしれません。

 

以上がじわじわ案件でした。

 

 

また雨が降り始めましたが低気圧にどうぞお気をつけて(切実)

中庸であること 

昨日、タイトルの様な事↑をぼんやりと考えていました。

 

それというのも、たまたまコーヒーショップで隣に居合わせた子が興奮気味に勉強?をしていて、何だかそわそわ、バタバタしながら作業を進めていたのを見たからです。恐らくカフェインが入っていたからか、早く自分の頭の中にあるものを出したい!と急いでいたからか、それとも全く違う理由かはわかりませんが落ち着かない様子でした。

 

そしてそれは良い悪いで判断する事ではないので、それだけの事なのですが、ただ、昔自分はあの様な状態になる事が多かったなあと思い出していました。

 

私の場合はあれをやってみたい、これをやってみたい、そしてそれを頭の中から早くノートに書き出したい!という症状めいたものが出てきて、でもその勢いだけだとなかなかに上手くまとめられずバタついて時間をやり過ごしてしまう。。という事が多かったです。そこにカフェイン盛っちゃうものだから何だか余計に落ち着かないという😅

 

これと少し似た例で、いつも自分の気分は意気揚々としていなければならない、という呪いを自分にかけていた様な気がします。ちょっと勢いづいた感じというか、元気に「はい!」ってハツラツと答えてる様な状態の自分をデフォルトにしたかったという。

 

 

でも今は全くそうは思えない。

 

もっと中庸の状態でいたいなあと考える様になりました。

 

 

大きな喜びも悲しみも少しで良いから、じんわりと続く喜びの方が良い(悲しみはちょっと辛いかな?😅)

 

だから誰かの事をすごく好き!とかすごく嫌い!というのもそんなにない方が平和というか、フラットな視点を持ってその人に接していきたいというのが今の心情に近いかもしれません。

 

これは個人的な価値観だと思うし、そう思わない人もきっといると思います。

 

そうは思っていても気分や感情の振れ幅は日常で起こるもの。だからこそ、いつ何時でも自分に立ち返る場所や方法を自分なりに理解している事は大事だと思う。

 

 

そんな事を思った雨の日

 

 

最近の私の自分に立ち返る方法は早起きして果物かさつまいもをおめざにしてコーヒー飲みながら読書したり調べ物したりするあの時間かもしれません。そしてその時間が最大に効果を発揮するのは10時位までなんですよね。。それ以降の時間は魔法がとける、ってなんの(笑)だからなるべく早起きしたいと思っています。

 

これが優雅にできるのは休みの日で、出勤する日はなかなか時間を確保するのが難しいけれどなるべく取れるように努力はしています。

 

後、瞑想やレイキヒーリングかな?どっちも独学なのですが、これもルーティーンに組み込まれています。。

 

自分の価値観って色々と変化するんだ、面白いなあ、って感じです

 

 

久々にまとまった文章を書けた気がします

 

ここ最近、挑戦していたことがあったり、それが思いのほかストレスだという事がわかったり(自覚できているのが何よりの救い)、でもその傍らで友人の行為に恵まれたり(おいしいメキシカンをご馳走になりました🌮)、忙しかったのですが、何か自分の中で少しどっしりした部分が出来上がった気がしています(スモールステップですが。。)

 

良い一日を!