道中で感情コントロールを考える

昨日、何十年ぶりにフェリーニの「道」を観たのですが、やっぱり巨匠の作品て凄いなあと、頭をガツンと殴られたような気がしました。

ストーリーの説明は割愛させて頂きますが。。各登場人物の人間臭さだったり、どうしようもないところが描かれていて、時代背景こそ違いますが現代の人々が観てもとても考え深いものなのではないかと思います。

旅の道中を共にするザンパノはそのままでも良いのだけど、もう少し自分の感情をコントロールできれば良かったのかもしれない。

でも、感情コントロールって難しいよなあと思います。もう少し理性的に考えられたらさぞかし楽なんだろうなと思う事山ほどあります。

この映画の中盤にキーパーソンとなるイル・マットという芸人が出てくるのですが(上記に添付している動画の0:23から出てくるバイオリンを弾いて踊っている人)、この人がこの動画内で言っているセリフ

「この小石でも役にたってる」

これはヒロインジェルソミーナが「私、何の為に生きているか判らない」と悩んでいる時に投げかけた言葉です。このイル・マット、ジェルソミーナの事をこの直前に「君は変だよね、頭とかアーティチョークみたいだしさ」とか明るく言ってて上げたり下げたりと調子が良いですが、私はこのシーンがなんだかとても感極まるところがありました。

この意味があるかどうかわからない小石にも役割はある。という風にも解釈しましたし、もし小石の様にただ淡々と生きる事ができたのなら不安や恐怖を内包してしまう人間はもう少しそれらを手放す事が出来るのではないかと思いました。

最近、また感染者が急増してきて経済の停滞や自由が効かない日々に不安を募らせている人が多い事を肌身で感じます。ちなみに今日私が聞いていたラジオのお悩み相談で「今回の騒動で、会社の人員削減があり人数が少ない中で激務でどう自分をコントロールすれば良いか判らなくなった。。」という方のお悩みが来ていて(泣)、皆表面では元気そうにしていても不安に追いかけられているのかな。。と。

私は植物や動物達にとって「死」や「不安」ってどの様に存在しているのだろう?と不思議になる事があります。人間ほどの不安や恐怖は持ち合わせていないかもしれない。もしかしたら私たちよりも死というものをもっと自然の摂理として身近に感じていて、淡々と、今目の前の事に集中しているのかな、とも思ったりします。

動植物への知識が足りない私がこんな事を書いてしまって何なのですが。。(スミマセン)感情や理性を持ち合わせている人間は小石や動植物の様には生きられないかもしれないけれど、ある意味での自然回帰という事はこの時代に促されている事なのではないかと思う。

それは文明が、テクノロジーが、とかいうことではなく、もう少し自分の内側にフォーカスすること。外側の条件ではなく、自分が何を求めているのかを日々の中で発見していくことなんじゃないかと思う。マインドフルネスなんていう言葉が当たり前になりつつあるし、浴びる情報が多い分自分をおざなりにしてしまうことが無意識的に起きるこの日常には、必要なのではないかな。。等と考えています。

そんな私も昨日は休みに何しよう?と考えて色々と判らなくなってました(笑)なんだか色々損得勘定してしまってあれこれ考えすぎてしまった!でも、一番最初にしたいと思った事はなんだっけ?と考えなおしたりして、フェリーニの「道」に突き当たるという。

はー、にしてもあの頃の時代というものは一度さよならを言ったらもう会えない確率になる事の方が高かったかもしれないし、ジェルソミーナなんてザンパノに売られてついていったけど、もう家族とは会えなくなるかもしれないのを承知でおそらく出ていったんだよなあ。イル・マットとのお別れの時も「チャオ」というあの表情がなんとも言えん。。。個人的にはイル・マットとジェルソミーナの夜空の下でのお話がクライマックスでした。

このブログも小石の様なものだけれど、それでも自分が出来る事をやっていく、それを忘れずにいようと思います。

今日も良い一日を。〆は淀川先生にご登場頂きました!

bananamelon / バナナメロン

先日バナナとメロンの貼り絵を納品してきました。オンラインショップの方には貼り絵の原画の写真しか掲載する事ができなかったので額に収まるとこんな感じだよ、というのを後ほどアップしようと思います。

私も自分で作った貼り絵が額縁に収まるとこんな感じになるのかと初めて知った(笑)

通常、額装したものを郵送という形で提供させて頂いておりますが、今回のクライアントさんはご自宅が近いという事もあり、インテリアの様子や壁の色等、相談させて頂きながらどんな額縁にするかを決めていきました。ちなみに額縁の裏側はこんな感じです。紐部分にワイヤーを引っ掛けたり、釘などに直接引っ掛ける事ができます。

今回の事で額装から納品まで一連の流れを体験させて頂いた事、その課程を経て新たな局面にいる事に感謝致します。また、家庭の中に参加させて頂くという事、これからの時間を一緒に過ごしていく事になるんだなあと思うとなんだかとても不思議な、でもとても光栄な気持ちです。

この貼り絵に関しては、シートのまま販売しても良いかな。。とも考えていたのですが、物によって額装するとがらっと印象が変わるし、最後まできちんと面倒を見るべきだなと思いまして額装込みでご提供させて頂いています。

ばなーな
めろーん

オンラインショップの方も是非覗いてみて下さいね。
https://masumihirayama-aat.stores.jp/

まさかのフィッシュマンズにバナナメロンという曲があった。というか、バナナメロンというフルーツもあるんですね。

ローランド先輩に学べ

最近、十何年ぶりにポートレートに挑戦していました。とってもまだ手さぐり段階でとにかく身体に人物像を馴染ませようとしている最中って感じですが。。

限られた情報と素材を見る限り、その相手は私とはおそらく趣味嗜好も結構違うのではないかなーと想像しています。だから街に繰り出して好きそうなものや興味がありそうなものを写真を撮ってリサーチしたり、その人物に近いのではないかと思われるような人々の動きを見たりしていました。

今現在の浅い段階での振り返りは、リサーチしたものの、それはポートレートの対象人物を世間という枠の中に収めて俯瞰する所まではできた、では、それから?という課題に直面している気がする。やはりそこからは、対象はどういった個人なのか?を問われていると思う。

ひえ~難しいなあと正直色々考えて不安定な日々を送っていたのですが、また新たな段階に踏み込んでいる自分も確認できたのでそれはそれでやったじゃあないか!と自分を必死に励ましている状態になりつつあります(笑)

はるか昔、何故かポートレートを描きまくっていた時期があったのですが(といっても雑誌などの写真をそのまま描いていた。でもほんと、人物を描く事が多かったです)、あれはなんでだったんだろう。。と未だに謎な部分があります。私は結構エモめの話とか逸話、みたいなのが好きなのでそんなストーリーが背景にある写真とか見ると、この人物は。。と興味を持つほうだと思います(多分)。後はただ単に構図だったり物語性がある写真を見ると「おおおっ。。」となるんです。

でも、雑誌や写真からなので遠いどこかの誰かを描いているという感覚がつきまとって楽しいけど虚しくなる時もありました。何にしろ、対象に向き合うという事は自分と向き合う事でもあり、自分軸をしっかり保ちながらも相手といかに対話するのか?という事を考え続けている様な気がします。

「作家である以前に私は私と言う個人でしかない」という言葉が今朝方頭に浮かんできた矢先、ラジオに出演していたローランドさんが仰っていた言葉→「自分が幸せじゃないと他人って幸せにできないですよね???」

ついていきます。。さすがっす!

にしても、その昔描きためていたスケッチブックをすごく久しぶりに見返したのですが。。怨念と執着しかない。。(笑)こわーー

留学前に描きためていたスケッチブックなのですが、絶対海渡る。。という怨念と執着が。。重い(笑)時間って流れていない様に感じることでもしっかり流れているのだなあと、肌身で感じた出来事でした。

この絵は比較的軽め。某ブランドの広告だったと思います。

その仕事は誰にでも出来る仕事

とある方に今までやったことのあるお仕事をお話する機会がありました。その中のひとつに「そんな仕事は誰にでも出来ます」、と、ぴしゃりと言われた事がありました。

仕事内容が単調で特別なスキルは必要ないし、慣れてしまえば簡単に出来てしまうものなのでその様に周りからは捉えられやすいのかもしれません。確かにそのやるべき事をこなす事ができれば、それは誰にでも出来る仕事、なのかもしれない。

でも、誰にでも出来る仕事の中で、自分の想像を活かし行動に移す、という事が出来た時に初めてそれはその人にしか出来ない仕事になりうるのではないだろうか。

例えば、コピーをとって上司のデスクの上に置く。そのプリントをデスクのどの位置に置くか?どの様な形で置いておくか?もしくはメモを添えて置いておくか?そこにはコピーをとるあなたの上司への理解や配慮が行動を左右する事になる。つまり、相手への想像を働かせるというクリエイティブな作業になる。

もしくはただいるだけで安心される人や、誰も気づかないような所をコツコツとメンテナンスしている人もそれに当てはまると思う。

それらはあえて日々の中では言及されない事が多いけど、その行動を見ている人は必ずいると思うし、何より、その仕事を退職した時に〇〇会社の人、ではなくて〇〇会社の〇〇さん、という風に一緒に時間を共にした人達の記憶に刻まれるのではないかと思う。

つまり自分で考えて行動する、もっというと自分を発露するという事なのかもしれない。

。。なんていう事を考えていました。天気が良い日が続き、外にでるとうっかり口あけて(マスクの下で。。)ぼけーっとしてしながらもあれこれと考えてしまうのでした。

私自身、その「誰にでも出来るであろう仕事」の中で自分を発露出来ていた仕事もあればそうでないものもあったと思います。そんな時は大抵マニュアルに気をとられていたり、その仕事環境に馴染めなくて想像を働かすどころかコミュニケーションもうまく取れなかった。。なんていう苦い思い出もあります。まあでも今思えば合わない環境に居ただけとも言えるし、その経験があったからこそどの様な環境下だと自分は創造性を働かせる事が出来るのか?という逆説も立てられるのだと思います。

そもそも、誰にでも出来る仕事、なんてあるんだろうか?どんなにシンプルな仕事内容だから誰でも出来そうと思われようと、「私、複雑に込み入った仕事が好きだから無理ーっ」っていう人もいるだろうし。

最後の最後に「そもそも」になってしまいましたね。今このブログを書いているパソコンや、机の周りにある文房具、今日食べた食材、私たちの周りは誰かの仕事で溢れている。それらに日々支えられて生きている。誰かが出来ない事は他の誰かが補ってお互いを支えながら生きているのだと思うと、なんだか身が締まる思いがするのです。

大根・人参・玉葱のすり流し紅白味噌汁

納豆とご飯が同時に上手く噛めない様に(私だけ?)お味噌汁を飲む時にうっかり具をよく噛まずに胃に流し込んでしまう時がある。胃の消化の炎の力が弱い時にやってしまうと元気になるつもりがうっかり胃が疲弊してしまうという、なんとも切ない事がたまにある。

まあこれはお味噌汁に限った話ではないのですが。なんだかこの前までは具材をモリモリいれたお味噌汁だったのでもっとするっと飲めるもの。。と考えた時にこの味噌汁の事を思い出した。

大根・人参・玉葱をひたすらすりおろして出汁と一緒に味噌を溶く!

やー、う・ま・い!!!

そんなに煮込む必要もないし、消化にもとてもよい。

そういえば、実家でこのお味噌汁を作った時に祖母が喜んでいた気がする。硬いものがあまり食べれないから食べやすかったのかな?(味が足りないとも言ってたけど)

紅白味噌汁とかタイトルに書いてるけど、お味噌を溶くと全然紅白じゃない。。

季節の変わり目だからか、体調管理がとても難しいですね。最近またまた各地で感染者数も増えてきたなどのニュースもよく聞くので少しでも調整していけたら良いなと考えています。

とは言っても身体の中には良いものも入ってくればあまり好ましくないものも入ってきたり、日々デトックスと吸収だなあと感じます。気のせいかもしれないけど、最近身体に合わないものが入って来た時の反応が速くなった気がします。特に油断すると顔周りにポツポツと出てくる。

昨日驚いたのが!鼻の下がなんだかむずむずするなと思ったら吹き出物?とも言って良いのか良くわからないものがムクムクと出てきて、しばらくしたらまた消えていきました。「おお。。何かに反応したのかな?」とびっくり。。

これ、昔同僚とお昼ご飯に海鮮丼を食べている時にも起こって、眼の前にいた同僚は眼をまんまるくしてその様子を見守っていた。ずるいよねー、自分じゃ見えないからさ。見たかったよ(笑)「疲れてるのかな?魚介類に反応したのかな?」とその時は話がまとまりました。

顔は人目につくので出てくると少し気分が落ちますが、「デトックスしてんだな、ラッキー」と思えるようになりました。まあ、完全に気にならないといったら嘘になるけど(笑)

話は脱線してしまいましたが。すり流し、美味しかったですよ。

have a relaxing sunday night.

サンキューおひさま

今日もどうもありがとう
またあした

最近、朝眼が覚めると「よしよし、生きている、身体が動いている」という事にただただ有難さを感じる事があります。

こうして夕陽をみると太陽が昇ったという事の当たり前だけど実はそうではなかったかもしれない事に少し驚きを覚える。

不安を抱えずに生きているとは言えないけど、いつ死んでしまうか分からないことを考えると今日一日に集中する以外何もない様な気がします。そうすると、ちいさいけどささやかなしあわせに気付ける事が多い。

柵の向こうに眼を移すと、夕方近い光に激しく照らされる海が見えた。あんなに大きな水がこの星の上でたぷんたぷんしていることがすごい。そんな中で私たちなんて一瞬で消えていく砂つぶだ。その砂つぶの中にある宇宙は無限の宇宙と呼応している。その法則の前で意図的にできることなんてやっぱりなにひとつない。意図したとたんに無限の入れ子のように、その意図も法則に組み込まれる。確信して、楽になる。波が寄せては返すように。夕暮れに鳥がいっせいに巣に帰っていくように。なにもしなくていい、なにも目指す必要はない。

吹上奇譚 第三話 ざしきわらし p166 吉本ばなな

このお話を今、くりかえし読んでいます。何故かというと、何気ないストーリーの中にとても重要な言葉が散りばめられていると思ったから。何回か読んでようやく理解できたであろう部分もあり、読むたびに発見があって面白いです。上記の引用も何回か読んで、「おお。。」とひとりでうなっておりました。第4話を読むのが今から楽しみで仕方ありません。

これを書いている今、お昼近くなのですが昨日の夕陽の写真を載せてしまいました。なんとなく不思議な感じですが、今週のお仕事が終わりの方も、週末も働くよーという方もお疲れ様でした。

良き午後を、週末をお過ごしくださいませ。

ちなみによく参考にさせて頂いているタクヤ先生が冬の養生のyoutubeをアップしていました。黒いもの、食べよ。黒豆とかあまり買わないし、おせちの予行演習も兼ねて煮ものでも作ってみようかしらん。

お試しと冬の養生

「お試し」って経験ありますか?先日私は今年何回かめのお試しが突然降りかかってきました。というのも、前々回のできる・できないについてうんうんぐだぐたな投稿をした(スミマセン)事に起因しております。

あの後、「もしかして今はこのできない事を乗り越えるチャンスなのでは?」「案外やってみれば出来るかも」等と考え、ちょっとやってみるか方向に向かおうとしていたのです。

そしたら、奇しくも次の日にそれらに関係する事に関わる機会が訪れまして。。敢え無く惨敗!翌日には電動ドリル式の偏頭痛に悩まされる事になるのでした(笑)

時々勘違いをしてしまう事があるのですが、この「出来ないこと」ってもしかして「やりたくないこと」だったのかと後で気づく事があります。自分の限界を努力が足りないという根性論に置き換えてしまうという。そして今までそういった事に論破されていた自分の在り方にも改めて気づいた様な気がします。(昭和。。)

自分を認める、ってとても大事な事ですよね。

少し話は逸れてしまうのですが、11月7日は立冬でした。この前までは土用の期間で季節の変わり目だから胃腸には気をつけてという話をあちこちで眼にしていましたが、冬の養生は以下の様です。

人間は自分の意思でなんでも出来ると思ってしまう事があるけれど、いつでも抗う事ができない摂理と共に生きているのだなあと、先人たちの知恵を知る度に思います。

私は毎日ストレッチをしているのですが、毎日やるのも少し問題があるみたいで(特に身体が柔らかいひとにとっては)少し控えめに、その代わりに筋トレをしたりする時間を毎日の中に少しだけ組み込んでいます。昨日の偏頭痛の時、これはやらない方が良いかな、というものははぶいて必要そうなストorトレーニングを混ぜてみました。まだまだだけど、こうした身体の微細な変化を季節と共に理解出来るようになりたいものです。

はっ、また出来るようになりたい、とか言ってるけど、これは「やりたい」事ですね。自分の健康・幸せの為に。

今日も心地よい一日をお過ごしくださいませ。